2026年5月から、月の最初の日曜日は、旧約聖書の「サムエル記」からメッセージを聞いています。
🌱 祈りによって与えられたサムエル
5月は、サムエル記第一1章から、母ハンナの切なる祈りによって与えられたサムエルの誕生について学びました。
サムエルは、後にイスラエル最後の士師となり、預言者として神に用いられていく人物です。
6月は、サムエル記第一3章から学びました。
当時は「主のことばがまれ」であった時代でした。そのような中、少年サムエルに神が語りかけます。
サムエルは神の呼びかけに耳を傾け、語られたことばを祭司エリに忠実に伝えました。この箇所から、自分の考えを先にするのではなく、へりくだって聖書を開き、神のことばに耳を傾けることの大切さを学びました。
📖「主の栄光は去っても」
今回のメッセージは、「主の栄光は去っても」。聖書箇所は「サムエル記 第一 4:1〜22」でした。
3章の最後には、全イスラエルが、サムエルが主の預言者として立てられたことを知った、と記されています。
そして4章は、
「サムエルのことばが全イスラエルに及んだ。」
という言葉から始まります。
しかし、サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったからといって、すぐにイスラエルの人々が神に立ち返ったわけではありませんでした。
⚔️ ペリシテ人との戦いに敗れる
イスラエルは、海洋民族として知られるペリシテ人と戦います。しかし戦いに敗れ、約4,000人の兵士が倒れてしまいました。
そこでイスラエルの長老たちは考えます。
「なぜ主は、今日、われわれをペリシテ人の前に打ち破られたのか。」
ここまでは、神に問いかけているようにも見えます。
ところが彼らは、神に立ち返って答えを求めるのではなく、「主の契約の箱を戦場へ持って来れば、敵から救ってくれる」と考えました。
🌊 かつてヨルダン川を渡ったときには
契約の箱といえば、ヨシュア記3章にも印象的な場面があります。
イスラエルの民が約束の地へ入ろうとしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちの足がヨルダン川に入ると、
「川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた……町アダムで立ち上がり……」
と記されています。
このとき契約の箱は、神がイスラエルを約束の地へ導いてくださることを示す、神の臨在と契約のしるしでした。
しかし、サムエル記4章では事情が違います。
イスラエルの人々は、神に聞き従うのではなく、「契約の箱さえ持ってくれば勝てる」と考えてしまったのです。
📣「これで勝てる!」地がどよめくほどの大歓声
契約の箱がシロからイスラエル軍の陣営に到着すると、
「全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。」
とあります。
ここで大切なのは、神が現れて地がどよめいた、と書かれているわけではないということです。
契約の箱が来たことで、イスラエルの兵士たちは「これで勝てる!」とばかりに大歓声を上げました。その声によって地がどよめいたのです。
その声を聞いたペリシテ人たちも、
「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう。」
と驚きます。
そして、イスラエルの陣営に神の箱が来たことを知ると恐れました。
ところが、戦いの結果はイスラエルの期待とは正反対のものとなりました。
😢 契約の箱まで奪われてしまった
ペリシテ人は恐れながらも奮起して戦い、イスラエルは大敗します。
今度は約3万人の兵士が倒れました。
さらに、祭司エリの二人の息子、ホフニとピネハスも死に、契約の箱までペリシテ人に奪われてしまいます。
まさに大敗北でした。
戦場から一人の男がシロへ戻り、この知らせを伝えます。
98歳になっていた祭司エリは、二人の息子が死んだこと、そして契約の箱が奪われたことを聞きます。
特に、「神の箱が奪われた」と聞いたとき、エリは椅子から後ろに倒れ、首を折って亡くなってしまいました。
「イ・カボデ」―栄光がイスラエルから去った
さらに悲しい出来事が続きます。
ピネハスの妻は、神の箱が奪われ、義父エリと夫ピネハスが死んだことを聞く中で、男の子を出産します。
彼女はその子を、
「イ・カボデ」
と名づけました。
それは、「栄光がイスラエルから去った」という意味でした。
🤔 契約の箱を「勝利の道具」にしてしまった
イスラエルの人々は、「神ご自身を信頼すること」と「神の箱を持っていること」を混同してしまったのではないでしょうか。
最初の敗戦の後、神に立ち返るのではなく、
「契約の箱を持っていけば、今度は勝てる」
と考えてしまいました。
ある意味で、神の箱を自分たちが勝利するための道具のように扱ってしまったのです。
しかし、契約の箱そのものに魔法のような力があるわけではありません。
🌊 同じ契約の箱なのに、なぜ結果が違ったのか
ヨシュア記とサムエル記を比べると、とても興味深いことに気づかされます。
ヨシュア記では、契約の箱が先頭を進み、ヨルダン川の水が止まりました。
ところがサムエル記では、同じ契約の箱を戦場へ持っていったにもかかわらず、イスラエルは大敗してしまいました。
違いは、「契約の箱を持っていたかどうか」ではありません。
「神に聞き、神に従っていたかどうか」だったのです。
神の声を聞こうとする信仰と、神を自分たちの目的のために利用しようとする信仰は違います。
🙏 へりくだって聖書を開く
ここでも私は、前回のサムエル記3章と同じように、へりくだって聖書を開くことの大切さを教えられた気がします。
聖書を持っていること。
教会に通っていること。
礼拝に出席していること。
もちろん、どれも大切なことです。しかし、それ自体が信仰の目的ではありません。
大切なのは、神ご自身に信頼し、神のことばに耳を傾け、そのことばに従って歩むことなのだと思います。
そしてイスラエルの物語は、この大敗北で終わりません。
契約の箱はやがてイスラエルへ戻ってきます。しかし、サムエル記第一7章を見ると、箱がキルヤテ・エアリムに置かれてから長い年月が過ぎ、20年が経ったころ、ようやく「イスラエルの全家は主を慕い求めていた」と記されています。
神のことばが届いても、人の心がすぐに変わるとは限りません。
イスラエルの民が、本当の意味で神ご自身を慕い求めるようになるまでには、長い歳月が必要でした。
「神の箱があるから大丈夫」ではなく、「神ご自身を求める」。
サムエル記4章の大きな敗北は、私たちにも、本当の信仰とは何かを問いかけているように思います。🙏


