先月から、月の最初の日曜日は旧約聖書「サムエル記」からのメッセージとなりました。
先月はサムエル記第一1章から、母ハンナの切なる祈りによって与えられたサムエルの誕生について学びました。サムエルは、イスラエル最後の士師として、そして預言者として神に用いられた人物です。
今回のメッセージは、「主よ、語りませ」。聖書箇所はサムエル記第一3章1~21節でした。
「主のことばはまれであった」時代
この時代は、士師の時代の終わりで、まだイスラエルに王はいませんでした。本来、イスラエルは神が治める国でしたが、霊的にはとても暗い時代となっていました。
聖書には、
「主のことばはまれで、幻も示されることが少なかった。」
と記されています。
祭司エリの息子たちは神を軽んじ、人々は最も大切な神の声に耳を傾けなくなっていました。
そんな時代に、神は一人の少年を選ばれます。
「サムエル、サムエル」
神殿で仕えていた少年サムエルは、夜中に自分の名前を呼ばれます。
「サムエル、サムエル。」
しかし彼は、それが神の声だとは分からず、「祭司エリ先生が呼んでいるのだ」と思い、何度もエリのもとへ向かいます。
三度目になってようやくエリは、「主がこの子を呼んでおられる」と気付き、こう教えます。
「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」
四度目に呼ばれたとき、サムエルはその言葉で神に応えました。
この祈りは、聖書の中でも最もよく知られている祈りの一つです。
神のことばを忠実に伝える
神がサムエルに最初に託されたことばは、祝福ではなく、祭司エリの家に対する厳しい裁きの知らせでした。
エリの息子たちは神を冒瀆し、エリ自身も彼らを十分に戒めませんでした。
翌朝、サムエルはその内容を伝えることを恐れます。しかしエリは、
「隠さず全部話しなさい。」
と言います。
サムエルは神から聞いたことを一つも隠さず伝え、エリもまた、
「それは主だ。主が良いと思われることをなさるように。」
と、神のみこころを受け止めました。
その後、聖書には、
「主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。」
と記されています。
こうしてサムエルはイスラエル中から主の預言者として認められ、再び神のことばが人々に語られる時代が始まっていきました。
まず「聞く」ことから始まる
今回、特に印象に残ったのは、サムエルの最初の務めが「語ること」ではなく、「神のことばを聞くこと」だったということです。
預言者とは、自分の考えを語る人ではなく、神のことばを忠実に聞き、そのまま伝える人です。
牧師を養成する神学校でも、説教の技術を学ぶ前に、まず何年もかけて聖書を学び、みことばに耳を傾けることを大切にしているそうです。
サムエルも最初は神の声だと分かりませんでした。しかし、
「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」
というへりくだった姿勢を持ったとき、神のことばを受け取ることができました。
これは祈るときだけでなく、聖書を読む私たちにも大切な姿勢なのだと教えられました。
神は今も語っておられる
神のことばは、励ましだけでなく、ときには悔い改めを促す厳しい内容もあります。
それでもサムエルは恐れながらも忠実に従い、神はそのような人を用いてくださいました。
神は完全な人ではなく、神の声に耳を傾け、従おうとする人を用いてくださるのです。
礼拝では、1980年代の東欧・中東欧の共産主義国の話も紹介されました。当時は自由に聖書を学ぶことも、公に信仰を語ることも難しい国がありました。それでも信仰を守り続けたクリスチャンがおり、政権崩壊後には再び教会が活発に活動するようになりました。
サムエルの時代とは状況は異なりますが、「神のことばが聞こえにくい時代であっても、神を求め続ける人を神は用いられる」という点では重なるものがあります。
今日の私自身への問いかけ
今回のメッセージを聞きながら、自分自身に問いかけました。
私は、サムエルのような情熱を持って聖書を読んでいるだろうか。
忙しい毎日の中で、自分の思いや考えを神に伝えることはあっても、「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」という姿勢で、神のことばに耳を傾けているだろうか。
神は今も語っておられる――。
その声を聞くために、まず私自身が静まり、へりくだって聖書を開くことの大切さを改めて教えられた礼拝でした。

