今朝、教会に行こうとしてLINEを見ると、私が通っている教会ではなく、母からLINEが来ていることに気づきました。
「おはようございます。裁判所で乗り継いで教会に行きました。」
えっ、一人で行ったの?
思わず驚いてしまいました。
車を手放した母、教会へはどうする?
2026年6月、母は車を手放しました。
近くのスーパーには徒歩で、病院にはバスで行く生活が始まりました。
では、教会へは?
残念ながら、実家の最寄りのバス停を通る路線では、教会の最寄りのバス停まで直接行くことができません。
先々週に帰省した際には、私の車で、久しぶりに母も教会へ行くことができました。
もちろん、毎週誰かが車で迎えに来てくださればありがたいのですが、そういうわけにもいきません。
実家から多摩南エリアの自宅へ戻った後も数日の休みがあったので、
「何か良い方法はないものか?」
と考えていました。
そこでたどり着いたのが、🚌 バスを「乗り換える」というアイデアでした。
調べてみると、途中で別のバスに乗り換えれば、教会まで行くことができます。
ただし、乗り換え時間はわずか8分。
しかもバスは1時間に1本です。
少しでも遅れれば、次のバスまで1時間待つことになるかもしれません。
「これは、ちょっと難しいかな……」
と思いながらも、一応このアイデアをLINEで母に送っておきました。
次回福井へ帰省したときに、私が母と一緒に、乗り換えを含めたバスルートを実際に試してみよう。
そう思っていたのですが……。
母は、すでに一人で実行していました!
何事にも「初めて」があります。
このバスで教会へ行く方法が、車を手放した後の新しい生活の一つとして形づくられていけばいいな、と思いました。
今日のメッセージは『神さまの約束』
今日の礼拝メッセージは、
『神さまの約束』
聖書箇所は、創世記18章1〜15節でした。
私が通う教会では、今年、創世記を最初から学んでいます📖
これまでには、創世記6〜9章の「ノアの箱舟」の物語がありました。
創世記10章ではノアの息子たちから広がっていく人々について語られ、11章では人々が高い塔を建てようとした「バベルの塔」の出来事が登場します。
そして12章から、アブラハムの物語が本格的に始まります。
神さまに示されて約束の地へ向かったアブラハム。
13章、14章では甥のロトとの出来事があり、15章では、子どものいなかったアブラハムに、神さまが子孫について約束します。
空の星を見せ、
「あなたの子孫は、このようになる」
と。
ところが、約束されたからといって、すぐに子どもが与えられたわけではありませんでした。
年月が過ぎていきます。
アブラハムは神さまに問いかけます。
「神さま、あなたは私に何をくださるのですか。私は子どもがないまま死のうとしています。」
神さまの約束を信じていても、何も起こらない時間が長く続いたら、私たちはどうするでしょうか。
祈り続けるでしょうか。
「神さま、信じて待ち続けます」
と、いつまでも素直に祈れるでしょうか。
期待できなくなったり、諦めたり、いつの間にか忘れてしまったりすることもあるのではないでしょうか。
「百歳で子どもが生まれる?」
そして今日の創世記18章。
アブラハムのもとに三人の人が現れます。
アブラハムは旅人だと思い、食事を用意して心からもてなしました。
そこで、驚くべきことが告げられます。
「来年の今ごろ、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」
しかし、アブラハムもサラもすでに高齢です。
人間の常識で考えれば、
「いやいや、それは無理でしょう」
と思ってしまう話です。
実際、サラはその言葉を聞いて、心の中で笑いました。
でも、笑ったのはサラだけではありません。
その前の創世記17章では、アブラハム自身も、
「百歳の者に子が生まれるだろうか」
と笑っています。
そんな二人に神さまは約束を与え、その約束を実現していきます。
そして今日の箇所には、こんな言葉があります。
「主にとって不可能なことがあるだろうか。」
私も「まさか」と思っていた
今朝の母からのLINEを思い返すと、少し重なるものがありました。
私はバスの路線図と時刻表を調べただけです。
自分ですら、そのルートで実際に教会まで行ったことはありません。
乗り換え時間は8分。
バスは1時間に1本。
「母が一人でバスを乗り継いで教会へ行くのだろうか?」
いや、まさかね。
「今度帰省したときに、一緒に行って試してみよう。」
そう思っていました。
私は心配していたというより、
「そんなことは、まだ一人ではしないだろう」
と笑っていたのかもしれません。
ところが、母はもう行っていました。
🚌
今朝届いた、
「裁判所で乗り継いで教会に行きました。」
というLINE。
私にとっては、小さいけれど、とてもうれしい知らせになりました。
「まさか」が「喜びの笑い」に
もちろん、母がバスを乗り継いで教会へ行ったことと、アブラハムとサラに与えられた神さまの約束は、同じ話ではありません。
それでも今日の出来事と聖書の言葉が重なって、考えさせられました。
私たちは、自分の経験や常識から、
「それは難しいだろう」
「たぶん無理だろう」
「まさか、そんなことはしないだろう」
と、いつの間にか可能性を小さくしてしまうことがあります。
アブラハムも笑いました。
サラも笑いました。
けれど、やがて二人には男の子が与えられます。
その子の名前は、イサク。
「イサク」という名前には、「彼は笑う」という意味があります。
そして後にサラは、
「神は私に笑いをくださいました。」
と語ります。
「そんなことがあるだろうか」
という疑いから出た笑いが、
「本当に与えられた」
という喜びの笑いへと変えられていきました。
今朝、私は母からのLINEを見て笑顔になりました。
「まさか、一人で行くとは!」
人間の「まさか」の先に何があるのかは、私たちには分かりません。
だからこそ、自分の経験や常識だけで「無理だろう」と決めつけず、祈りながら一歩を踏み出すことも大切なのだと思います。
母にとっても、バスを乗り継いで教会へ行くことが、新しい生活の中の一つの道として続いていくことを願っています。
そして私自身も、今日の聖書の言葉を覚えておきたいと思います。
「主にとって不可能なことがあるだろうか。」
疑いの「まさか」が、いつの日か喜びの「まさか」に変わる。
そんなことを考えた、日曜日の朝でした。
