日曜日は教会へ:✝️ 自分の十字架を負う?それでもイエスに従うということ

2027年7月から8月1週目の教会の生花 教会
教会に生けられている花が、7月から8月の花に変わりました。
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2026年8月は、国内外で大きな自然災害が相次ぎました。

熊本の地震、千葉の集中豪雨に続いて、石川県と富山県でも記録的な集中豪雨が発生しました。

能登半島といえば、2024年元日の能登半島地震、そして同年9月の豪雨によって大きな被害を受けた地域です。復旧・復興が続く中で、再び大雨に見舞われることになりました。

海外でも大きな自然災害が発生しました。ネパール北部と中国・チベット自治区との国境付近では、氷河の崩壊をきっかけとする大規模な土石流や洪水が発生。多くの方が亡くなり、今も行方が分からない方がいます。

そして今朝起きると、故郷の福井市にも、警戒レベル5の「緊急安全確保」が発令されていました。集中的な大雨が続き、河川の氾濫や浸水の危険が迫っていたためです。

こうしたニュースを目にすると、

「なぜ、このような苦しみが起こるのだろう?」

と考えさせられます。

📖「主イエスに従うことの幸い」

今日は、国外宣教の働きをされている先生が、『主イエスに従うことの幸い』というタイトルで、マタイの福音書16章21〜28節からメッセージをしてくださいました。

新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書があります。

その最初に置かれているマタイの福音書では、イエスが、イスラエルの民が長い間待ち望んできた「王」、すなわちキリストであることが示されています。

今日の箇所は、イエスがご自分の十字架と復活を予告し、弟子たちに「自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と教えられる場面です。

イエスは、ご自分がエルサレムへ行き、宗教指導者たちから苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえることを弟子たちにはっきりと語り始めます。

ここで大切なのは、十字架が単なる悲劇として語られているのではないことです。

十字架は神の救いの計画の中にあり、しかも十字架で終わらない。

その先には「三日目によみがえる」という復活がありました。

😟 ペテロには受け入れられなかった

ところが、これを聞いたペテロはイエスをいさめます。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」

という趣旨のことを言ったのです。

ペテロは直前で、イエスに対して「あなたは生ける神の子キリストです」と素晴らしい告白をしています。

それほどイエスを信じていたからこそ、「キリストが苦しみ、殺される」などという話は受け入れられなかったのでしょう。

ところが、イエスから返ってきたのは非常に厳しい言葉でした。

「下がれ、サタン。」

これは、ペテロ自身を悪魔だと言っているというより、神の計画ではなく、人間的な考えによって十字架への道を妨げようとしていることを厳しく指摘した言葉です。

ペテロにとっては、相当にショックな言葉だったのではないでしょうか。

イエスは続けて、

「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」

と指摘されました。

ここに、「神が考えておられること」と「人間が考えていること」の大きな違いがあります。

✝️ 自分の十字架を背負う? それはちょっと無理でしょう

そしてイエスは弟子たちに語ります。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

これは、なかなか厳しい言葉です。

自分を捨てて、自分の十字架を背負って、イエスについていく。

「いやいや、それはちょっと無理でしょう」

というのが、私たちの素直な気持ちではないでしょうか。

イエスが私のためにすべてを捨て、十字架にかかってくださったことは分かる。

でも今度は、

「あなたも自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい」?

イエスと私では、あまりにも次元が違いすぎるのではないでしょうか。

🚶 イエスが先に歩いてくださった

ただ、ここで大切なのは、イエスが「わたしとまったく同じことをしなさい」と言っているわけではないということです。

イエスの十字架は、人を救うための十字架です。

私たちが背負う十字架には、そのような意味はありません。私たちがイエスと同じように、誰かの救いを成し遂げるわけではありません。

むしろ、順番が大切なのだと思います。

イエスが先に十字架へ向かわれる。
そのイエスに、私たちがついていく。

ですから、「自分の十字架を負う」という言葉も、「ものすごい苦しみに自分の力だけで耐えなさい」という意味ではありません。

🤲 自分が握りしめているものを手放す

では、「自分を捨てる」とは何なのでしょうか。

ペテロは、

「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」

と指摘されました。

そう考えると、「自分を捨てる」とは、自分自身の存在を否定することではなく、自分の考え、自分の都合、自分の思い描いた人生を絶対的なものにしないこととも考えられます。

「私はこうしたい」

「神様なら、こうしてくれるはず」

「こんな苦しみが起こるなんて、おかしい」

私たちは、いろいろな思いを握りしめて生きています。

しかし、自分には理解できないことが起きたときにも、その思いだけを絶対とするのではなく、

「分からない。でも、それでもイエスについていこう」

とする。

それが、イエスに従って歩くということなのかもしれません。

🌧️ 災害が「あなたの十字架」なのではない

ここは、とても大切なところだと思います。

災害に遭うこと自体が「自分の十字架」なのではありません。

まして、被災した人に、

「それがあなたの十字架なのだから、背負いなさい」

などと言うための聖書箇所ではありません。

むしろ問われているのは、自分では理解できない苦しみが存在する世界で、それでも誰を信頼して歩いていくのかということではないでしょうか。

そしてイエスは、さらに不思議なことを語られます。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。」

「全部手放してしまったら、何も残らないじゃないか」

私たちはそう考えます。

ところがイエスは、私たちが必死になって握りしめているものを手放し、イエスに従った先にこそ、本当のいのちがあると語られます。

私たちの常識とは、まったく逆です。

「何を手に入れるか」ではなく、「誰に従って生きるのか」

イエスを信頼して、自分中心の生き方を少しずつ手放しながら、その後についていく。

今日の聖書の箇所から、そんなことを学びました。

🌱 それでも、信じて歩いていく

自然災害だけではありません。

私たちの人生には、病気、事故、大切な人との別れ、仕事や人間関係の問題など、できれば避けて通りたい「苦しみ」があります。

今この瞬間にも、世界のさまざまな場所に悲しみや痛みがあります。

その大きさを前にすると、私たち一人ひとりにできることなど、ほんのわずかなのかもしれません。

そして今の時代、

「イエスを信じて、その後についていく」

なんて話をしている人が目の前にいたら、

「この人、本当にそんなことを信じているの?」

と、ちょっと不思議に感じる人もいるかもしれません。

私自身も、すべてを理解できているわけではありません。

なぜこんなことが起こるのか。
なぜ苦しみがあるのか。

分からないことは、たくさんあります。

それでも、自分ですべてを理解してから信じるのではなく、分からないことを抱えながらも、イエスを信頼して、その後についていく。

「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

簡単な言葉ではありません。

でも、私たちより先に十字架を背負い、その道を歩いてくださった方がいる。

だからこそ、その方について歩いていくことができる。

それが今日のメッセージのタイトルにある、「主イエスに従うことの幸い」なのだと思いました。

2027年7月から8月1週目の教会の生花
教会に生けられている花が、7月から8月の花に変わりました。
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