読書:ツァラテュストラはこう言った(下)

チノパンおやじ、コンビニで本を読む(AI画像) 読書、映画・音楽観賞
コンビニという日常空間で「普通」とは何かを考える読書記録(千と千尋の神隠し風:ChatGPT)
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前回、上巻の読後記録を書くつもりで書き始めたのですが、第一部だけで力尽きてしまいました。

第一部の主題にはなんとか辿り着いたものの、その途中で引っかかる言葉があまりにも多かったのです。

その一つが、「読むことと書くこと」でした。

「すべて書かれたもののうち、私はただ、血で書かれたものだけを愛する。血を持って書け」

強烈な言葉です。

ニーチェは、

本を読む → 知識を覚える → 賢くなる

というだけの読書では、どうも満足してくれません。

むしろ、

読む → 自分で生きる(血) → 考える → 自分自身の言葉として書く

そこまで行け、と言っているように読めます。

第二部では「学者たちは上等の時計じかけ」という表現も出てきました。

どれほどたくさんの知識を持ち、それを正確に処理することができても、それだけならば「上等の時計じかけ」なのかもしれない。

「血で書く」とは、得た知識がその人自身を通過して、やがてその人自身の生き方や思想になっていくことなのでしょう。

そう考えると、本を読むことは、なかなか大変なことです。

📖 第二部は、かなりすっ飛ばしてしまった

このように第一部だけでも気づきが多すぎました。

しかも、分からないところも多すぎる。

そのため第二部以降は、正直なところ、かなりすっ飛ばしてしまった感が否めません。

第一部では、

「新しい価値を創り出せ」

という方向が見えてきました。

そして第二部では、そのためには、まず自分自身を乗り越えなければならないという「自己超克」の問題へ進んでいきます。

ところが私は、それを十分に消化できないまま下巻へ。

そして下巻を手に取ってみると、さらにページ数が増えています。

これはもう、たまりません(笑)。

🚶「すべての良いものは廻りみちをして、その目標に近づく」

そんな中で出会ったのが、この言葉でした。

「すべての良いものは廻りみちをして、その目標に近づく」

考えてみれば、ツァラトゥストラ自身がそうなのです。

山で孤独になる
 ↓
人間のもとへ下りる
 ↓
教えようとする
 ↓
理解されない
 ↓
弟子を持つ
 ↓
弟子から離れる
 ↓
再び孤独になる
 ↓
永劫回帰という恐ろしい思想に直面する
 ↓
高等な人間たちと出会う

一直線ではありません。

まさに、廻りみちの連続です。

失敗する。

考え直す。

信じていたものを疑う。

別のものに出会う。

そして、以前とは少し違う自分になる。

そう考えると、「廻りみち」は決して無駄ではありません。

むしろ、廻りみちそのものが、自分を乗り越えていく過程なのかもしれません。

📚 でも、解説書を読みたい……

などと書きながら、私自身は猛烈に思っていました。

「廻りみちをせずに、解説書を読みたい……」

せっかく注釈の少ない氷上英廣訳を選んだのだから、まずは自分の力で最後まで読んでみよう。

そう思っていました。

ところが第三部に入っても、ニーチェが言おうとしている「永劫回帰」に、なかなか辿り着けません。

見えてはいるのです。

でも、はるか彼方に小さな点として見えているだけ。

分かったようで、まったくつかめない。

これでは、せっかく読んでいるのに、言葉の表面だけを通り過ぎてしまうのではないか。

そんな気もしてきました。

🇨🇳「機不可失,時不再来」

ここで、最近学んでいる中国語の言葉を思い出しました。

「機不可失,時不再来」

「好機は逃してはならない。時は二度と戻ってこない」。

つまり、

「チャンスを逃すな」

という意味です。

もちろん、廻りみちには意味がある。

でも人生の時間には限りがあります。

「いつか分かるだろう」と何年も置いておくのではなく、今、この本を読みたいと思っているのなら、解説書の助けを借りてでも、もう少し深く入ってみる。

それも一つの選択ではないでしょうか。

🌱「活到老,学到老!」

そして、もう一つ好きになった中国語があります。

「活到老,学到老!」
(huó dào lǎo, xué dào lǎo)

「生きている限り、学び続ける」
「いくつになっても学び続ける」

という意味です。

そう考えて、ここで方針変更です。

一度、解説書を読んでみることにしました。

そして、そのうえでもう一度『ツァラトゥストラ』に戻ってみたいと思います。

注釈なしで読み切ることにこだわる必要もないのでしょう。

解説書を読んだあと、同じ文章がまったく違って見えたなら、それもまた読書です。

🔄 自分の読書そのものが「廻りみち」だった

ここまで書いて、ふと気づきました。

大学時代、一般教養で哲学を学びました。

ソクラテス、アリストテレス、アガペー……。

でも当時の私は、哲学そのものを深く考えることより、まず単位を取ることのほうが大切でした。

それから長い時間が経ちました。

そして今になって、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を読みながら、

「哲学とは何だろう?」

「人間とは何だろう?」

「自分が正しいと思っている価値は、本当に自分で考えたものなのだろうか?」

そんなことを、もう一度考えています。

大学時代には単位を取る以上の関心がなかった哲学を、人生を重ねてから『ツァラトゥストラ』を通してもう一度読む。

考えてみれば、これ自体がずいぶん長い「廻りみち」です。

でも――

「すべての良いものは廻りみちをして、その目標に近づく」

のだとしたら、この廻りみちも悪くありません。

そして次は、少しだけ近道をします。

解説書を片手に、もう一度ツァラトゥストラの山を登ってみます。

ニーチェ 著  氷上英廣 訳(2026)大活字版 ツァラトゥストラはこう言った (上)(岩波書店)

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