『知られぬ日本の面影』を読んで ― ラフカディオ・ハーンが見た日本
NHKの朝ドラをきっかけに、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の代表作『Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)』の翻訳アンソロジー(選集)を読んでみました。
この作品は、40歳で日本に住み始めたハーンが、来日から約4年を経た頃に書き上げた最初の本です。後年の『怪談』へとつながる代表作でもあります。
ハーンが見た「失われつつある日本」
まず「はじめに」を読んで興味深かったのは、ハーンが来日した頃の日本は、すでに急速な西洋化の渦中にあったということです。
幕末から明治初期を描いたミットフォードの『古き日本の物語』では、武士や町人たちの生活が生き生きと描かれています。しかし、明治中期になると知識人たちは西洋哲学を学び、宗教や超自然的なものへの関心を失いつつありました。
不可知論――「超自然的な存在は人間には知ることができない」という考え方も広がり始めていました。
そんな時代にあって、ハーンは日本の庶民の生活の中に魅力を見出します。
日本人の生活の類まれなる魅力は庶民の生活の中にある。
彼は、日に日に日本人の暮らしの中から予想もしなかった美しさが現れてくる、と記しています。
人と自然が共に暮らす風景
ハーンが驚いたものの一つが、人を恐れない野生動物でした。
カモメ、鳩、コウノトリ、鹿、池の鯉。
野生動物が人前で平然としている光景は、彼にとって非常に印象的だったようです。
もちろん、日本の動物が特別おとなしいわけではありません。長い年月の中で、人と動物が同じ空間を共有して暮らしてきた結果なのでしょう。
そこには、
人と自然が完全に分離されず、ゆるやかに共存している世界
がありました。
今でも奈良公園や公園周辺を歩いていると、その感覚を味わうことができますね。松江の堀川にも行ってみたいです!
日本は「御伽の国」だった
本書の中でも特に印象的だったのは、来日直後の記録です。
『東洋の第一日目』では、ハーンが初めて日本に触れた時の驚きが率直に綴られています。
彼は、
日本の第一印象は香水のように捉えどころがなく、うつろいやすい
と書きました。
異国を訪れた時の第一印象はすぐに消えてしまいます。だからこそ記録しておくことが重要なのです。
彼は、活字の中でしか知らなかった極東の世界に実際に足を踏み入れ、その美しさに圧倒されました。
朝の空気にさえ魅力を感じる。
街並みは名画のように美しい。
そして何より、日本人の思いやりある眼差しや笑顔に強く心を打たれます。
日本は御伽の国であり、日本人は御伽の国の住人である。
城があり、神社があり、提灯が灯り、堀には魚が泳ぎ、鷺やカモがいる。
夕暮れには寺の鐘が響く。
日本人にとっては何気ない風景ですが、彼の目には夢見ていた妖精の国のように映ったのでしょう。
漢字は「生きた絵」
ハーンの観察で面白いのは、日本語の文字についての記述です。
彼は、
文字は生き生きとした絵である
と書いています。
アルファベットは基本的に音声記号ですが、日本語は漢字・ひらがな・カタカナが混在しています。
漢字は意味を直接表し、ひらがなは文法を補い、カタカナは外来語や強調を担う。
認知科学でも、日本語話者と英語話者では文字を読む際の脳の働き方に違いがあることが知られています。
日本人には当たり前の漢字文化が、ハーンには非常に新鮮に映ったのです。
日本の庭に魅せられる
私自身、最近NHK BSの『村雨さんと日本庭園たしなみ巡り』を見ています。
スウェーデン出身の庭師・俳優の村雨辰剛さんが、日本庭園の見方や意味を解説してくれる番組です。
番組を見て以来、三溪園(三溪園が出来たのは近代になってからの事ですが横浜の街には横文字が目立ち始めました)、小石川後楽園や妙心寺退蔵院/醍醐寺三宝院(京都)、神勝寺(福山)の石庭に強く惹かれるようになりました。
ハーンもまた、『日本の庭にて』で日本庭園の魅力を語っています。
西洋の庭園が花を主役とするのに対し、日本の庭園は石や砂、水や苔によって自然そのものを表現します。
たとえ一坪の庭でも宇宙を表現できる。
その発想に深い美意識を感じます。
いつか借景で有名な足立美術館も訪れてみたいと思っています。
『英語教師の日記から』が面白い
特に印象に残った作品の一つが『英語教師の日記から』です。
当時の県庁職員は和装が基本でした。
絹の袴、絹の着物、家紋入りの羽織。
ハーンは、威厳に満ちた彼らの姿を見て、自分の平凡な洋服が恥ずかしく思えたと記しています。
学校の様子も興味深いものでした。
生徒たちは驚くほどおとなしく、授業の始まりには全員が起立して礼をし、教師も礼を返します。
現代の日本では当たり前の光景ですが、欧米では教師と生徒が
“Good morning.”
“Good morning, Mr. Smith.”
と挨拶を交わしてそのまま授業が始まることが一般的です。
また、日本の子どもたちは幼い頃から漢字を書き、筆を使った書道も学びます。
当時の欧米人から見れば、
何千もの文字を覚え、それを手で再現する
ということ自体が驚異的だったのでしょう。
教育勅語と君が代
本書には当時の教育制度についても触れられています。
教育勅語は、親孝行、誠実さ、友情、学問、公共への貢献などを説いた教育理念でした。
また、天皇誕生日には学校で国歌『君が代』が歌われました。
「あなたの時代が永く続きますように」
という祝福の歌です。
戦後の日本では教育制度も価値観も大きく変わりましたが、こうした記録から当時の日本人が大切にしていたものが見えてきます。2026 FIFA World Cupで君が代を何度も聞くことになりますね。改めてこの祝福の歌をじっくり聞いてみたいと思います。
読後に思ったこと
若い頃の私は、都会の便利さや活気に強く惹かれていました。
しかし年齢を重ねるにつれて、ハーンが見たような日本らしい風景に心を動かされるようになりました。
人と自然が共にあること。
庭や神社に静けさがあること。
季節の移ろいを感じること。
ハーンが愛した日本は、決して過去のものではありません。
今でも私たちの身の回りに、静かに残っています。
この本を読んだきっかけは朝ドラでしたが、翻訳だけではなく、ぜひ原文の『Glimpses of Unfamiliar Japan』も読んでみたいと思いました。
今年中の目標にしたいと思います。
ラフカディオ・ハーン 池田雅之=訳(2000)新編 日本の面影(角川ソフィア文庫)

