ブログを書いていると、自分でも意外なことに気づくことがあります。
最近気づいたのは、私が「哲学」という言葉を何度か自然に使っていたことです。いずれも読書について書いたブログでした。📚
『コンビニ人間』では、
「コンビニで働くとはどういうことか? 普通とは何か?」というテーマを、哲学・社会学としてではなく、社会が押し付ける「ふつう」という幸福幻想や人生設計を問い直す小説
と書きました。
『空間の未来』では、
会社員視点では、バラバラな個々人を結ぶものは「企業哲学」なんだと再確認
そして『日本の面影』では、
明治中期になると知識人たちは西洋哲学を学び、宗教や超自然的なものへの関心を失いつつありました。
と書いています。
こうして振り返ってみると、「哲学」という言葉は意外と身近なところにあるんですね。🤔
🎓 大学で習った「哲学」は、ほとんど点の記憶
理系出身の私も、大学の教養課程で「哲学」の講義を受けました。
そこで、ソクラテスやアリストテレスという人名に触れたり、アガペー(与える愛)という言葉を学んだりしたことは、断片的ながら覚えています。
とはいえ当時は、そもそも「ものの考え方そのものを学ぶ」ということに、単位を取得すること以上の関心を持っていませんでした。😅
哲学や歴史といった文系の学びはもちろん、理系の学びでさえ、学生時代には一つひとつを断片的に覚えることが多かったように思います。
振り返れば私は長い間、
「線」や「面」ではなく、「点」で物事を理解する
という歩みを続けてきたのかもしれません。
体系的に物事を考えるようになったのは、むしろ社会に出て専門性を深める必要に迫られてからでした。
そう考えると、学生時代に講義で哲学を聞くことと、ある程度人生を経験してから哲学書を読むことでは、受け止め方がずいぶん違うのではないでしょうか。
🤔 そもそも「哲学」とは何だろう?
「哲学」は、ギリシア語の philosophia に由来し、もともとは「知を愛すること」という意味です。
ただし、「たくさんの知識を持つこと」とは少し違います。
哲学とは何かを私なりに一言で捉えるなら、
「当たり前だと思っていることを、根本から問い直す営み」
ということになるでしょうか。
たとえば、
「幸せになりたい」
と思ったとします。
普通なら、
「どうすれば幸せになれるだろう?」
と考えます。
ところが哲学は、その一歩手前まで戻ります。
そもそも幸福とは何か?
なぜ幸福でなければならないのか?
誰がそれを幸福だと決めたのか?
幸福であることと、よく生きることは同じなのか?
……と問い始めます。
哲学には、必ずしも一つの「正解」が用意されているわけではありません。
むしろ、自分が無意識のうちに前提としていたものに気づくことに、大きな意味があるのでしょう。
「当たり前」の下を、さらに掘っていく。
そんな営みなのかもしれません。⛏️
📖 『ツァラトゥストラはかく語りき』?「こう言った」?
そこで今回、手に取ったのがニーチェの
『ツァラトゥストラはこう言った』
です。
ただ、昭和生まれの私には、
『ツァラトゥストラはかく語りき』
のほうが、やはり耳になじみがあります。
原題はドイツ語で、
Also sprach Zarathustra
「ツァラトゥストラはこう語った」「ツァラトゥストラはこう言った」という意味ですが、日本では長く、
「かく語りき」=「このように語った」
という文語調の題名でも親しまれてきました。
「かく語りき」という言葉には、単に古い日本語という以上の響きがあります。
どこか聖書や預言書を思わせる荘重さがあるんですね。
一方、日本で『ツァラトゥストラはこう言った』という題名を広く知らしめた訳の一つが、氷上英廣(ひかみ・ひでひろ)訳の岩波文庫です。上巻は1967年に刊行されています。
つまり、昭和の真ん中には、すでに「こう言った」という現代的な題名が存在していたわけです。
そして現在でも「こう言った」という題名は使われており、2023年に刊行された森一郎訳(講談社学術文庫)も『ツァラトゥストラはこう言った』です。
大ざっぱに眺めれば、
戦前〜昭和:「かく語りき」の印象が強い
1967年〜:岩波・氷上訳で「こう言った」
現代:「こう言った」もすっかり一般的に
という流れでしょうか。
でも、面白いですよね。
「かく語りき」と「こう言った」では、ツァラトゥストラという人物から受ける印象まで違ってくる。
「かく語りき」なら、聖書の預言者のように荘厳に聞こえます。
「こう言った」なら、一人の人間がこちらに向かって話しているように、少し近く感じられます。
翻訳とは、単に外国語を日本語に置き換えるだけではないんですね。
そして私にとっては、やはり「こう言った」のほうが入りやすい。
2026年に氷上英廣訳の大活字版が刊行されたことをきっかけに、
「よし、読んでみよう!」📖
という気になりました。
✝️ 聖書を知っていると、意外に面白い
読み始めて気づいたのですが、『ツァラトゥストラはこう言った』は、聖書を知っていると、とても興味深い作品です。
ツァラトゥストラ自身が、山で孤独に暮らした後、人々のところへ下りていきます。
そして人々に語りかける。
その姿は、どこか預言者を思わせます。
説教のような語り口、「弟子」、さまざまな比喩や寓話など、聖書を連想させる仕掛けも随所に現れます。
ところが、ニーチェは聖書の教えをそのまま語っているわけではありません。
むしろ、聖書的な表現を使いながら、従来の価値観をひっくり返して問い直していく。
そこが面白く、同時に難しいところです。
たとえば、読みながらこんな問いに出会います。
「徳を積むことは善い」
→ そもそも、なぜ徳は善いのか?
「学者は賢い」
→ 知識をたくさん持つことと、よく生きることは同じなのか?
「人生には苦しいことがある」
→ それでも、この人生そのものを肯定できるのか?
なるほど。
これが「哲学する」ということなのかもしれません。🤔
📚 聖書の「注解書」のように読む方法もある
聖書を読むときには、
本文 → 脚注 → 関連する聖書箇所 → 注解
とたどっていくことがあります。
『ツァラトゥストラ』も、
本文 → 注釈 → 背景となる聖書やギリシア思想 → ニーチェがそれをどう反転させたのか
と追っていくと、急に意味が見えてくるところがあります。
そういう意味では、2023年に新訳を出し、さらに翌2024年には『快読 ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』』という解説書まで刊行した森一郎さんの訳で読むのも、とても面白そうです。
……なのですが。
今回は、あえてそうしないことにしました。
📖 あえて、氷上英廣訳で読んでみる
私が選んだのは、氷上英廣さんの訳です。
しかも、詳しい注釈を頼りながら読むのではなく、まずは訳文そのものと向き合ってみようと思います。
氷上訳の岩波文庫上巻が最初に刊行されたのは1967年。
偶然にも、私が生まれた年です。
そんな半世紀以上前の日本語で、ニーチェが何を語りかけてくるのか。
大学生だった頃には、単位を取るために聞いていた「哲学」。
それを人生をずいぶん歩いてきた今になって、今度は自分から本を開いて読んでみる。
なんだか、それだけでも面白い気がします。😊
さて、どうなることやら……。
『ツァラトゥストラ』を読みながら考えたことは、また別の機会にブログに綴ってみたいと思います。
そして本を開く前には、ぜひこちらも。
🎵 R.シュトラウス:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』
あの有名な冒頭を聴いてから、少し心を静めてニーチェの世界に入っていく。
そんな読書も、なかなかオススメですよ。📖🎶
ニーチェ 著 氷上英廣 訳(2026)大活字版 ツァラトゥストラはこう言った (上)(岩波書店)

