読書 宇沢弘文の経済学 社会的共通資本の論理

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「人生を変える読書」から出会った一冊

『人生を変える読書』を読んだ際、「メタレベルから世の中を見る」という視点で紹介されていた一冊があります。

経済学者・宇沢弘文さんの『社会的共通資本』です。

経済学というと、経済成長率、物価、金利、株価などを思い浮かべます。しかし、宇沢先生が問い続けたのは、もっと根源的なことでした。

経済は、いったい誰のために存在するのか。

人々が豊かに、人間らしく暮らすために、社会は何を守らなければならないのでしょうか。

本当の読書とは何か。自分が自分であるために、何を学ぶべきなのか。そんなことを考えながら、この一冊を手にしました。

ノーベル経済学賞と宇沢弘文

ダイナマイトの発明によって莫大な財産を築いたアルフレッド・ノーベル。1895年の遺言で設けられた賞は、物理学、化学、生理学・医学、文学、平和の5分野でした。

経済学賞は含まれていません。

現在の「ノーベル経済学賞」は、1968年にスウェーデン国立銀行が創設した賞で、正式には「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」と呼ばれます。

宇沢弘文先生は、経済成長理論や数理経済学で世界的な業績を残し、ノーベル経済学賞の有力候補と評されることもあった経済学者です。

しかし、2014年に亡くなられました。ノーベル賞は原則として死後の授賞が認められていません。

宇沢先生の研究に影響を受けた経済学者の一人に、清滝信宏さんがいます。清滝さんも世界的に高く評価されており、将来の経済学賞受賞を期待する声があります。

もっとも、宇沢先生の本当の偉大さは、数理経済学での業績だけではありません。

数学的な経済理論を追究しながら、環境破壊や公害、医療、教育、都市などの問題に真正面から向き合ったことにあるのではないでしょうか。

本書の解説を担当した小島寛之さんは、この一冊を「凝縮されたウザワ・ワールド」と表現しています。

その言葉の意味が、読み進めるうちに少しずつ見えてきました。

1.アダム・スミスからジョン・スチュアート・ミルへ

経済的な豊かさは何のためにあるのか

アダム・スミスといえば『国富論』です。

国が豊かになるとは、どういうことなのでしょうか。

単に生産量や所得が増えることではありません。人々が健康で文化的な生活を営み、喜怒哀楽といった人間らしい感情を自由に表現できる社会を実現すること。そのためには、物質的な生活基盤が必要です。

これは、スミスの『道徳感情論』にも通じる、人間の感情や倫理を重視する考え方です。

読んでいて、「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い出しました。

現代のベーシック・インカムとも、どこか問題意識がつながっているように感じます。ただし、スミス自身がベーシック・インカムを提唱したわけではありません。

経済が成長し続けなくても、人間は豊かになれる

宇沢先生は、アメリカ西海岸のモントレーで、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』の古本を手にしたそうです。

ミルは、経済が無限に成長し続けることだけが望ましい社会の姿ではないと考えました。

所得や生産、資本の総量が大きく増えなくても、人々の文化的・知的活動が豊かに展開される社会はあり得る。

いわゆる「定常状態」という考え方です。

これは非常に興味深い視点でした。

私たちは経済成長率が高いことを当然のように良いことだと考えます。しかし、経済成長が止まったとしても、人間の幸福や文化まで停滞するとは限りません。

ミルの『自由論』が重視したのも、人間の尊厳、個人の自立、そして自由な生き方でした。

宇沢先生は、恩師である木村健康先生の教えなども振り返りながら、経済学の中心に人間の自由と尊厳を据える思想を深めていきます。

2.ヴェブレンと制度主義――経済を動かすのは数字だけではない

アメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンは、人々の消費行動を独特の視点から分析しました。

例えば、女性の豪華なドレス。

実用性だけを考えれば、必ずしも必要ではありません。しかし、高価な衣服は富や社会的地位を示す役割を持ちます。

ヴェブレンは、こうした消費を「顕示的消費」として論じました。

経済活動は、合理的な損得計算だけで決まるわけではないのです。

人間の欲望、社会的な慣習、企業の行動、法律や制度などが複雑に関係しています。

この考え方は、経済を単なる数式の集合ではなく、歴史や文化、社会制度の中で理解しようとする「制度主義」へとつながります。

宇沢先生も、経済を支える制度の重要性を強調しました。

国民総生産、消費、投資などの数値を分析するだけでは十分ではありません。

社会にとって重要な資本が安定的に維持され、その恩恵が社会正義にかなう形ですべての人に届けられる制度を、どう実現するのか。

ここから「社会的共通資本」という考え方が見えてきます。

3.社会的共通資本とは何か

社会的共通資本とは、すべての人が豊かで人間らしい生活を送るために、社会全体で守り、維持し、次の世代へ引き継いでいくべき共通の財産です。

宇沢先生は、主に次の3つを考えました。

  • 自然環境: 大気、水、森林、河川、海洋など
  • 社会的インフラ: 道路、交通、上下水道、電力など
  • 制度資本: 医療、教育、金融、司法など

重要なのは、これらを単なる商品や利益を生む資産として扱わないことです。

例えば、医療を市場原理だけで運営すれば、利益が得られにくい地域や患者への医療提供が不足するかもしれません。

教育も同じです。家庭の経済力によって教育機会が大きく左右されれば、社会全体の公平性が損なわれます。

宇沢先生は、市場経済そのものを否定したわけではありません。

市場原理だけに任せてはいけない領域がある。

そして、そうした領域では、専門家の知識や倫理、社会的な制度による管理が不可欠だと考えたのです。

4.自動車の社会的費用――便利さの裏側で、誰が犠牲になるのか

本書を読みながら、特に印象に残ったのが自動車の問題でした。

自動車は、私たちの生活を便利にしてきました。遠くへ旅行でき、重い荷物を運び、自由に移動できます。

しかし、その便利さには、誰がどれだけの費用を負担しているのでしょうか。

1950年の『ポピュラ・サイエンス』が伝えた「死の座席」

ここで、以前手にした古い科学雑誌を思い出しました。

日本語版『ポピュラ・サイエンス』です。

  • 1948年12月号:「今日の米国爆撃機」
  • 1949年7月号:「なぜ超航空母艦が必要か」
  • 1950年9月号:「タービン自動車の時代は来るか」
  • 1950年10月号:「“死の座席”英国自動車の特徴」(英語版ならGoogle Booksで全文を読めます)

1950年10月号(日本語版:英語版は7月号)には、アメリカの独立記念日について、こんな記述がありました。

「世界で一番恐ろしい座席は、…前の…座席なのです。今年は…独立祭の間に、祭日を楽しむ400人ほどの人々が、自動車事故で恐ろしい死に見舞われ、約15,000という…多数の人々がひどいけがをしたり、不具になったりしました。」

これは一件の大事故ではありません。1950年の独立記念日連休中、全米各地で発生した交通事故を指しています。

当時の報道では、交通事故による死亡者は約480人に達していました。

1950年といえば、シートベルトが一般の乗用車に広く普及する前であり、エアバッグもまだ実用化されていない時代です。

現在では、シートベルト、エアバッグ、衝突安全構造などの技術が大きく進歩しました。前部座席の安全性が向上した一方、後部座席の保護性能も新たな課題になっています。

それでも、アメリカでは現在も年間数万人が交通事故で命を落としています。

76年前の記事を読むと、自動車社会が抱える問題の根深さを感じます。

道路は誰のためにあるのか

建築家・評論家のバーナード・ルドフスキーは、街路を人間のための空間として捉えました。

ところが、自動車社会の発展とともに、街路は人間よりも自動車のための空間へと変わっていきました。

道路が拡幅され、駐車場が増え、歩行者は狭い歩道へと追いやられる。

歩行者の安全を守るために歩道橋を造るという発想もありますが、そもそも歩行者を道路の上に追いやるのではなく、自動車の側を地下に通すという選択肢もあるのではないでしょうか。

東京の環状七号線や環状八号線を考えてみます。

道路のすぐ脇には住宅やマンションが建ち並び、大量の自動車が昼夜を問わず通行しています。

排気ガス対策は以前より進みましたが、騒音や振動、住宅と幹線道路の近接という問題は残っています。

環八では、かつて「環八雲」という現象も知られていました。自動車交通や都市の熱環境が関係すると考えられた雲の列です。

道路を利用する人は便利になります。しかし、道路沿いに暮らす人々は、その代償を負担しています。

観光地でも同様です。

道路が整備されることで観光は便利になりますが、道路建設によって自然が失われることもあります。

社会的費用という考え方

宇沢先生は1974年、『自動車の社会的費用』を刊行しました。

社会的費用とは、ある経済活動によって社会全体に生じる費用のことです。

自動車を運転する人は、ガソリン代、車両購入費、保険料などを支払います。これが私的費用です。

一方、自動車の利用によって生じる排気ガス、騒音、交通事故、渋滞などの負担は、運転者以外の人々にも及びます。これが外部費用です。

社会的費用 = 私的費用 + 外部費用

自動車を利用する人が外部費用を十分に負担していなければ、自動車利用は社会全体にとって望ましい水準を超えて増えてしまう可能性があります。

需要が増えれば道路を造り、道路が増えれば自動車も増える。そして、事故や公害への対策がさらに必要になる。

宇沢先生は、この悪循環を問題にしました。

自動車に魅力があることを認めながらも、その便利さのために将来どれほど大きな費用を支払うことになるのかを問い続けたのです。

この章を読んで、自動車の便利さだけでなく、道路を使わない人や、沿道に暮らす人々の立場から社会を見ることの大切さを感じました。

5.水俣病、コモンズの悲劇、そして農業・医療へ

自動車の問題から、本書は水俣病やむつ小川原開発など、環境と地域社会の問題へと進んでいきます。

そこに共通するのは、経済発展による利益と、その裏側で生じる損失を誰が負担するのかという問いです。

コモンズの悲劇とは

「コモンズの悲劇」という考え方があります。

例えば、誰もが自由に牛を放牧できる牧草地。

一人ひとりの農民が自分の利益を増やそうと牛を増やしていくと、やがて牧草地が荒廃してしまいます。

個人にとって合理的な行動が、社会全体にとって不合理な結果を生むのです。

ただし、共有資源が必ず破壊されるわけではありません。

利用者が協力し、適切なルールを設ければ、資源を長期にわたって維持することもできます。

空海と灌漑の歴史

日本の農業を考えると、灌漑の歴史が思い浮かびます。

平安時代の821年、空海は現在の香川県にある満濃池の修築に携わったと伝えられています。

もちろん、日本の灌漑農業は空海以前から発達していました。しかし、空海の満濃池修築は、水利施設が地域社会にとっていかに重要だったかを象徴しています。

ため池は、一人の農民だけが使うものではありません。

地域の農民が共同で水を利用し、堤防や水路を管理し、必要な修繕を行います。

誰もが好きなだけ水を使えば、下流の農民に水が届かなくなるかもしれません。

だからこそ、水を公平に分配するルールや、維持管理の費用と労働力を分担する仕組みが必要になります。

ここに、社会的共通資本の考え方がよく表れています。

自然資源を守るためには、技術だけでなく、人々の協力と制度が必要なのです。

熱帯雨林と先住民族の知識

本書では、アマゾンの熱帯雨林に暮らす先住民族と製薬企業の関係も取り上げられています。

製薬企業にとって、熱帯雨林の植物や、先住民族が受け継いできた薬用植物の知識は、新薬開発につながる貴重な資源です。

しかし、企業がその知識を利用して利益を得た場合、その利益は誰のものなのでしょうか。

本書では、先住民族の長老に特許料を支払おうとする制度と、それを拒否した長老の事例が紹介されています。

自然や伝統的知識は、単に金銭的価値に換算できるものなのでしょうか。

ここでも、市場の論理だけでは解決できない問題が見えてきます。

6.地球温暖化と炭素税

地球温暖化も、社会的費用を考える重要なテーマです。

石油や石炭などの化石燃料を消費すると、二酸化炭素が大気中に排出されます。

しかし、その影響は燃料を消費した人や企業だけにとどまりません。

気候変動による被害は、世界中の人々や将来の世代にも及びます。

そこで登場するのが炭素税です。

排出される二酸化炭素の量に応じて税を課し、環境への負担を経済活動の費用に反映させようとする仕組みです。

本書では、各国の所得水準なども考慮した炭素税のあり方が論じられています。

重要なのは、単に税金を増やすことではありません。

環境を破壊する費用を、誰が、どのように負担するべきなのか。

この問題を経済学の立場から考えることに意味があります。

7.教育と医療――市場原理だけでは守れないもの

学校教育は誰のためにあるのか

教育は、個人が知識や技能を身につけるためのものです。

しかし、それだけではありません。

教育を受けた人々が社会を支え、新しい文化や技術を生み出し、次の世代へ知識を伝えていきます。

つまり、教育は社会全体に利益をもたらします。

家庭の所得によって教育機会が大きく左右される社会では、人々が本来持っている可能性を十分に発揮できません。

教育を社会的共通資本として考えることは、教育を単なる個人への投資ではなく、社会全体で守るべき基盤として捉えることなのです。

医療を経済に合わせるのか、経済を医療に合わせるのか

医療について、宇沢先生は非常に印象的な問いを投げかけています。

国民医療費は、国民所得の何%が望ましいのでしょうか。

経済学の計算によって、最適な数字を決めることができるのでしょうか。

宇沢先生は、医療を経済に合わせるのではなく、経済を医療に合わせるという視点を重視しました。

医療は、人間の生命と健康を守るために存在します。

医療費の抑制だけを優先して、必要な医療が受けられなくなってしまえば、本末転倒です。

ここで思い浮かぶのが、古代ギリシャの「ヒポクラテスの誓い(Hippocratic Oath)」です。

医師は、専門的な知識を患者の利益のために使い、患者に不必要な害を与えず、秘密を守るという職業倫理を持つべきだとされています。

医師は単なる医療サービスの販売者ではありません。

患者の生命と尊厳を守る専門家です。

宇沢先生が医療を社会的共通資本として捉えた背景には、こうした専門家の倫理を尊重する考え方があります。

8.金融制度――利益は民間に、損失は国民に?

金融制度もまた、社会的共通資本の一つです。

本書では、アメリカの金融危機や、日本の住専問題が取り上げられています。

住専問題とは何だったのか

住専とは「住宅金融専門会社」の略です。

もともとは個人向け住宅ローンを中心に扱う金融会社でした。

ところが、1980年代後半のバブル期には、不動産業者向けの融資を拡大しました。

地価が上昇している間は、不動産を担保とした融資が急増します。

しかし、バブル崩壊後に地価が急落すると、融資した資金を回収できなくなり、巨額の不良債権が発生しました。

住専の損失を誰が負担するのか。

金融機関、農協系統、政府の間で大きな政治問題となり、最終的には公的資金も投入されました。

「利益は民間に、損失は国民に」

そんな構図への批判が強まりました。

もちろん、公的資金の投入には、金融システム全体の混乱を防ぐという目的もありました。

しかし、経営の失敗を社会全体で負担することは公正なのでしょうか。

護送船団方式の問題

かつて日本の金融行政には、「護送船団方式」と呼ばれる仕組みがありました。

行政が金融機関を強く保護し、業界全体の安定を重視する制度です。

この仕組みは金融システムの安定に寄与した一方、金融機関の競争や経営規律を弱める側面もありました。

また、バブル崩壊後の低金利政策は、金融機関の資金調達費用を抑え、収益回復を助ける効果がありました。

その一方で、預金者が受け取る利息は減少しました。

金融制度を安定させることと、経営責任を明確にすること。

この二つをどう両立させるべきなのでしょうか。

金融は、単に利益を生み出す仕組みではありません。

人々の預金を守り、企業の活動を支え、社会全体の経済を安定させる役割があります。

だからこそ、高い専門性と倫理観、そして社会的責任が求められるのです。

9.都市とは何か――人間が主役の街を考える

最後に取り上げられるのが、都市です。

都市とは何でしょうか。

多くの人が暮らし、働き、所得を得る場所であると同時に、人々が交流し、文化を生み出し、維持していく場所でもあります。

宇沢先生は、都市が農村とは異なり、土地そのものの農業生産力に直接依存せず、多様な生産活動を展開できることに注目しました。

本書では、ニューヨークと東京を比較しながら、都市の財政や制度の問題が論じられています。

さらに、ロンドン、パリ、フランクフルトなどの都市計画にも目を向けています。

都市計画の制度は、それぞれの国の歴史、経済、文化の積み重ねによって形成されてきました。

日本では、道路や公園などの都市施設整備、用途地域や容積率による規制が都市形成に大きな役割を果たしてきました。

しかし、道路が広くなり、高層ビルが増え、都市の外観が立派になったとしても、それだけで人々が暮らしやすくなったといえるのでしょうか。

都市のルネッサンス

ヨーロッパでは、自動車中心の都市づくりによって、公共空間から人々の姿が失われることへの危機感が高まりました。

人が歩き、集まり、交流する空間を取り戻そうとする都市再生の動きです。

スペインのビルバオやフランスのストラスブールなどは、都市の再生を考えるうえで興味深い事例です。

道路や交通機関を整備するだけでなく、人々が安心して歩き、暮らし、文化を楽しめる都市をどう実現するのか。

以前読んだ、ポストコロナ時代の都市文明を考察した『空間の未来』を思い出しました。

宇沢先生は、田園都市やル・コルビュジエの「輝ける都市」といった近代都市計画の思想も取り上げながら、人間にとって望ましい都市のあり方を考えました。

別の著書『最適都市を考える』でも、このテーマが掘り下げられています。

人間が主体性を持って生きられる都市とは、どのような都市なのでしょうか。

改めて考えてみたくなりました。

10.宇沢弘文の思想は、今も大学で受け継がれている

宇沢先生の社会的共通資本論は、過去の思想として終わったわけではありません。

京都大学には「Beyond 2050 社会的共通資本研究部門」が設けられています。

経済学だけでなく、医学、公衆衛生、環境、都市計画などを横断しながら、社会的共通資本の考え方を現代の課題へと発展させています。

特に興味深いのは、医療や健康格差の問題を、社会的共通資本という視点から研究していることです。

これは、医師の職業倫理を重視するヒポクラテスの誓いともつながります。

一方、東京大学でも、良品計画の寄付によって2022年に社会的共通資本寄付講座が設けられました。

こちらでは、経済学や制度設計の観点から、社会的共通資本をどのように管理し、持続可能な社会を実現するかが研究されてきました。

宇沢先生の思想は、大学や研究分野の枠を超えて、今も新しい問いを生み出しているのです。

おわりに――経済は人間のためにある

『社会的共通資本』を読んで、改めて考えさせられました。

自動車は便利ですが、その騒音や排気ガスを誰が負担しているのでしょうか。

企業は利益を追求しますが、自然環境や地域社会への影響をどこまで考えるべきなのでしょうか。

医療や教育は、経済的な効率だけで評価してよいのでしょうか。

金融制度は、誰のために存在するのでしょうか。

そして都市は、自動車や建物のためではなく、そこに暮らす人間のために設計されているのでしょうか。

これらは別々の問題に見えますが、根底には共通する問いがあります。

社会にとって本当に大切なものを、誰が、どのような責任と倫理に基づいて守っていくのか。

宇沢先生の社会的共通資本論は、その問いに向き合うための大切な視点を与えてくれます。

経済成長はもちろん重要です。しかし、経済成長そのものが目的ではありません。

人々が自由に、尊厳を持って、豊かに暮らせる社会を実現すること。そのために経済が存在するのだと思います。

「人生を変える読書」で紹介されていた、メタレベルから世の中を見るという視点。

今回の読書は、日常の便利さや経済的な豊かさの背後にある、社会の仕組みを見直すきっかけになりました。

経済成長の先にある、人間らしい社会とは?

経済のために人間が生きるのではなく、人間のために経済がある。

この一冊から得た、最も大きな学びです。

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