日本では、毎年4月になると新年度が始まります。毎年10月になると折り返しを感じます。
4月は学校や会社では新しい年度が始まり、環境が大きく変わる季節です。教会でも、新しい牧師が就任したり、役員や奉仕の体制が変わったりと、4月が一つの大きな節目になることがあります。
一方で、教会にも「1月」という大切な節目があります。
年明けには「年間聖句」や「年間標語」「年間テーマ」などが示され、
「今年、私たちの教会は、この御言葉を大切にして歩んでいきましょう」
という方向性が共有されることがあります。そして、そのテーマに沿って新しいメッセージのシリーズが始まることがあります。
ざっくり言えば、
4月は「教会の働きや体制」の新年度。
1月は「信仰生活」の新しい一年。
そんな二つの節目があるように思います。
もちろん、教会や教団によって違います。また、キリスト教の教会暦では、待降節(アドベント)から新しい一年が始まります。それでも、日本の教会では「1月」と「4月」の両方が、新しい歩みを意識する時期になっているのではないでしょうか。
📖 月に一度、「サムエル記」から
私が通っている教会では、2026年3月、前任の牧師が健康上の理由から牧師としての働きを終えることになりました。
専任の牧師が不在となる中、4月からは毎月第一日曜日に、協力牧師が説教をしてくださっています。
4月の第一日曜日は、ちょうどキリストの復活を記念するイースター礼拝と重なったため、新約聖書からのメッセージでした。
そして5月からは、月の最初の日曜日に旧約聖書の「サムエル記」からメッセージを聞いています。
サムエルが生まれたのは、聖書に「主のことばがまれであった」と記されている時代でした。
これまでを振り返ってみると――
🌱 5月:母ハンナの切なる祈りによって与えられたサムエルの誕生
👂 6月:少年サムエルが神の呼びかけに耳を傾け、語られたことばを祭司エリに忠実に伝える
📖 7月:サムエルが主の預言者として認められ、再び神のことばが人々に語られる時代が始まる
⚔️ 8月:イスラエルがペリシテ人に敗れ、契約の箱まで奪われる
🙏 9月:イスラエルが神に立ち返り、サムエルの祈りを通してペリシテ人から救われる
そして今日は、
『私たちに王を下さい』
というタイトルで、「サムエル記 第一」8章1〜22節からのメッセージでした。
👑 「私たちにも王を立ててください」
この8章は、サムエル記の中でも大きな転換点です。
イスラエルの民がサムエルに、
「私たちにも王を立ててください」
と要求するのです。
ここからイスラエルは、士師の時代から、サウル、ダビデ、ソロモンへと続く「王の時代」へ向かっていきます。
なぜ、イスラエルの人々は王を求めたのでしょうか。
月日は流れ、サムエルも年老いていました。
サムエルは息子のヨエルとアビヤを士師として立てます。しかし、息子たちは父サムエルと同じ道を歩みませんでした。
彼らは利得を追い求め、賄賂を取り、正しい裁きを曲げてしまいます。
民からすれば、不安だったことでしょう。
「サムエルがいなくなったら、私たちはどうなるのだろう?」
しかも、その後を継ぐ息子たちは信頼できません。
そこでイスラエルの長老たちはサムエルのところへやって来て、
「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」
と求めました。
人間的に考えれば、その気持ちも分からなくはありません。
⚠️ 王がいれば、本当に安心なのか?
しかし、サムエルは彼らに警告します。
王を立てれば、王は息子たちを兵士として徴用するでしょう。娘たちを働かせるでしょう。畑やぶどう畑、収穫物を取り、家畜やしもべたちまで王のために使われるようになるでしょう。
つまり、
「王がいれば、すべてうまくいくわけではありませんよ」
とサムエルは伝えたのです。
ところが、民は聞き入れませんでした。
「いや。私たちにはどうしても王が必要です」(Ⅰサムエル8:19の趣旨)
そして、こう言います。
「私たちも、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先頭に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」
ここには、人間の心の不思議なところが表れているように思います。
🤔 「これさえあれば」
一度、
「これがあれば大丈夫」
と思い込んでしまうと、なかなか考えを変えることができません。
「これを買えば毎日が楽しくなる」
「この仕事に就けば幸せになれる」
「この人と一緒になれば幸せになれる」
「もっとお金があれば安心できる」
手に入れる前には、それが人生を変えるほど大きなものに見えることがあります。
ところが、実際に手に入れてみると、あれほど欲しかったものなのに、喜びは三日と持たず、いつの間にか「当たり前の日常」になってしまうことがあります。
イスラエルの人々にとって、それが「王」だったのかもしれません。
しかも、その直前の7章では、イスラエルが神に立ち返り、神ご自身がペリシテ人との戦いを助けてくださったばかりでした。
神が助けてくださった。
それなのに8章では、
「私たちの戦いを戦ってくれる王が欲しい」
と言うのです。
神はサムエルに言われます。
民が拒んでいるのはサムエルではない。
「わたしが彼らを治める王であることを拒んだのだ」
問題は、「王がいるか、いないか」だけではありませんでした。
誰を信頼するのか。
そこが問われていたのです。
👨👦 背中を見せるだけでは伝わらない
もう一つ、今回の箇所から考えさせられたのが、サムエルと息子たちの関係です。
サムエル自身は、長い間イスラエルを導き、神に仕えてきた人物でした。
ところが、その父親の姿を見て育ったはずの息子たちは、父と同じ道を歩みませんでした。
親が正しく生きる姿を見せていれば、それだけで子どもにも同じ信仰や価値観が伝わる――とは限らないのですね。
もちろん、親が背中を見せることは大切です。
でも、それだけではなく、
大切なことほど、面と向かって話す。
相手の話を聞く。
一緒に考える。
そんな時間も必要なのだと思います。
内村鑑三には、食事中であっても、子どもたちが神について話し始めると箸を止め、きちんと話を聞いたという逸話があります。
信仰について語ることを、「まだ子どもだから」「話しても分からないだろう」と、こちらが勝手に限界を決めてはいけないのかもしれません。
信仰は、ただ背中を見せていれば自動的に次の世代へ伝わっていくものではない。
だからこそ、大切なことほど向き合って、言葉にして伝えていく必要があるのでしょう。
🙏 「本当に必要なものは何だろう?」
イスラエルの人々は、
「王さえいれば」
と思いました。
私たちにも、
「これさえあれば」
と思ってしまうことがあります。
でも、そんなときこそ一度立ち止まってみる。
「私は、なぜこれをこんなに欲しいと思っているのだろう?」
「これを手に入れれば、本当に安心できるのだろうか?」
そして、
「今の私に、本当に必要なものは何だろう?」
と神に尋ねてみる。
イスラエルに本当に必要だったのは、目に見える王を手に入れること以上に、すでに自分たちを導いてくださっている神を信頼することでした。
「これさえあれば」と思ったときこそ、立ち止まる。
そして、本当に必要なものは何なのか、神に尋ねる。
今回の「サムエル記 第一」8章から、そんなことを考えさせられました。

