少し慌ただしかった今年のイースター
今年のイースターは、昨年よりもずいぶん早く、4月の第一日曜日。
ちょうど新年度のスタートとも重なり、どこか落ち着かない、慌ただしい始まりになりました。
そんな中でも、あっという間に一週間が過ぎ、気がつけばまた日曜日。
今日は4月第2週の礼拝です。
いつものように、途中で高齢の方を車にお乗せして教会へ向かいました。
こうした何気ない日曜日の習慣も、今となっては大切な時間です。
今日の説教:「主の祈り①」
今日の説教は、伝道師の先生による連続説教のスタート。
テーマは『主の祈り①』、箇所は「マタイの福音書」6章9〜13節でした。
ここで改めて感じたのは、
教会の「説教」は、私たちが普段イメージする「説教」とはまったく違うものだということです。
「説教」という言葉のギャップ
日常でいう「説教」とは、
- 行動を正すためのもの
- 「なぜダメなのか」「どうすべきか」を教えるもの
- 親や先生から子どもへ、という上下関係
いわば「叱る+教える」です。
一方で、教会の説教(sermon)は、
- 聖書を通して人生を考えるもの
- 聖書の言葉+その意味+今の自分へのメッセージ
- 導き手と聞き手という関係
つまり、怒るためではなく、考え、励まされ、導かれるための時間です。
「まず神の国と神の義を求めなさい」
説教は、教会に与えられている年間聖句を振り返るところから始まりました。
「まず神の国と神の義を求めなさい」
これは、イエス様が教えてくださった祈りの中心にある考え方です。
神様を第一にすることが、すべての出発点になります。
神はすでに知っておられる
弟子たちは、イエス様が静かな場所で祈る姿を見ていました。
祈りは、神との大切な時間です。
ただ興味深いのは、聖書にはこうも書かれていることです。
神は、私たちに必要なものをすでに知っておられる
つまり、
「一生懸命説明しなくても、神はすべて知っている」。
それでも、なぜ祈るのでしょうか?
祈りは「伝えるため」だけではない
それは、
神と共にいることを思い出すためです。
祈ることで、
- 神の愛を思い出す
- 自分は一人ではないと気づく
- 神と共に生きていることを感じる
そんな時間になります。
逆に、祈らずに日々を過ごしていると、
いつの間にか「自分中心」になってしまうこともあります。
「自分はどうしたいか」「自分はどうすべきか」
気づけば、神様が後ろに押しやられてしまうこともあるのではないでしょうか。
親子の会話のように
説教の中で、こんな例えがありました。
公園で遊んだ子どもが、父親に話しかけます。
「今日はすごく楽しかったよ。ブランコも乗ったし、砂場で山も作った。でも壊れちゃった。また大きいの作りたいな。」
父親は、その様子をずっと見ていました。
だから、すべて知っています。
それでも、子どもは話します。
なぜでしょうか?
それは、
話すこと自体が、関係を深める時間だからです。
そしてそれは、子どもだけでなく、父親にとっても嬉しい時間です。
祈りも同じです。
神はすべて知っていても、私たちが語りかける時間を喜んでくださるのです。
祈りは天に目を向けることから
「主の祈り」は、天に目を向けることから始まります。
私たちの神は、
- 万物を創られた全知全能の神であり
- 私たち一人ひとりを知っておられる存在
そんな神に、直接祈ることができる。
それ自体が、すでに大きな恵みです。
祈りの答えは必ずある
祈っても「本当に聞かれているのか」と思うことがあります。
でも、説教の中で強調されていたのは、
祈りには必ず答えがあるということでした。
ただし、それは
- すぐに叶う場合もあれば
- 違う形で与えられることもあり
- 時間がかかることもある
というものです。
もしすべてが自分の思い通りになるなら、
それは「神」ではなく「自分」が神になってしまいます。
神は、最善の形で応えてくださる存在なのです。
孤独の中でも、共におられる神
人生の中で、
- 誰もわかってくれないと感じる時
- 評価に傷つく時
- 孤独を感じる時
そんな「暗いトンネル」にいるような瞬間もあります。
それでも、神は共にいてくださる。
だからこそ、祈ることができるのです。
「お父さん」と呼びかけるように
神への祈りは、「父」に語りかけるようなものです。
「お父さん」と呼びかけたとき、
「どうした?」と応えてくれる存在。
その関係性の中で祈ることが、
私たちに与えられているのです。
神の国を求めて生きる
私たちは、いつの間にか
- 働くことが「生きるための手段」になり
- 一時的な楽しみを追い求め
本来の目的を見失いがちです。
しかし本来、私たちは
神の国の実現のために生きる存在として造られています。
自分のための人生ではなく、
神の御心を求めて生きる人生。
そこに、本当の喜びがあります。
今日の恵みに感謝して
こうして今日も礼拝を持てたこと。
それ自体が大きな恵みです。
日々の忙しさの中でも、
神との時間を大切にしながら歩んでいきたい。
そして、日常の中でも
「主の祈り」を思い起こすことができればと願います。
そうすれば、あっという間じゃなかった一週間を感じることができるのかもしれません。
2026年4月12日
日曜礼拝にて

