🌸 桜の気配とともに迎える日曜日
今日は3月中旬の日曜日。
街のあちこちで「そろそろ桜かな?」と、心がそわそわし始める季節です。
私はこれまで、北陸→東海→関東と移り住んできました。
そのせいか、3月中旬になると体内時計が反応するように、自然と桜の開花が気になり始めます。
昨年は4月5日、尾根緑道で満開の桜を楽しむことができました。
今年は少し早いのか、それとも同じくらいなのか——そんなことを思いながら、いつものように教会へ向かいました。
📖 今日のメッセージ:「死んでも生きる」
今日は月に一度の伝道礼拝(歓迎礼拝)。
いつもとは少し違う箇所からのメッセージでした。
テーマは、ヨハネの福音書11章25〜26節
タイトルは 「死んでも生きる」
正直に言えば、この言葉はとても不思議です。
私たちの感覚では、「死んだら終わり」と考えるのが自然だからです。
でも、イエスははっきりとこう語りました。
「死んでも生きる」
⚖️ 死は終わりではないという視点
人生において避けられないもの——それが「死」です。
どんな人にも平等に訪れる、最後の出来事。
けれど聖書は、死で終わりではないと語ります。
死のあとには裁きがあり、
神との関係の中で「生きる」か、「滅び」に至るかが分かれる——
ここには、普段の生活ではあまり考えない
“その先の世界” が示されています。
✨ ラザロの復活が示したもの
このメッセージの背景には、ある出来事があります。
それが、イエスによるラザロの復活です。
ラザロは、新約聖書に登場する人物で、
特に「イエスによってよみがえらせられた人」として知られています。
すでに亡くなっていたラザロを、イエスは再び生かしました。
多くの人々はこの奇跡を見て、イエスを信じるようになります。
しかし一方で、宗教指導者たちはどうしたか。
この出来事をきっかけに、イエスを殺そうとする動きをさらに強めました。
同じ出来事でも、受け取り方はまったく違う。
人の心のあり方が、はっきりと現れる場面です。
✝️ 十字架と「永遠の命」
その後、イエスは33歳で十字架にかけられ、命を落とします。
しかしそれは、ただの悲劇ではありませんでした。
聖書は、そこに大きな意味があったと語ります。
人は本来、神との関係の中で生きる存在。
けれど「神を認めない」ことが、聖書でいう罪です。
イエスの死によって、その罪が赦され、
私たちに「永遠の命」が与えられた——
だからこそ、クリスチャンはこう信じます。
「死んでもなお、生きる」
🌅 イースターに向けて
イエスは死で終わらず、復活しました。
その出来事を記念するのがイースターです。
今年のイースターは、4月5日の日曜日。
桜が咲き始めるこの季節と、
「新しい命」のメッセージが重なるのは、とても象徴的に感じます。
🍀 今日の気づき
桜の開花を待つように、
目には見えないけれど確かなものを待つ——
そんな心の在り方も、大切なのかもしれません。
「死んでも生きる」という言葉。
すぐに理解できるものではありませんが、
ふと立ち止まって考えると、
人生の見え方が少し変わるような気がします。
2025年3月15日 伝道礼拝にて ✍️


