『漁港の肉子ちゃん』を読んでいて、ふと気づいたことがあります。
作中で、肉ちゃんの娘・キクコが読んでいる本として出てくるのが、サリンジャーの
『フラニーとゾーイー』と『ライ麦畑でつかまえて』。
どちらも「孤独に寄り添ってくれる本」なんですよね。
最近は、泣ける小説や重たい映画を少しお休みして、
「あなたは一人じゃないよ」と、そっと教えてくれる本を読みたい気分でした。
そんな流れで手に取ったのが『フラニーとゾーイー』です。
フラニーは妹、ゾーイーは兄。
知的で感受性の強いグラス家の兄妹が、それぞれの苦悩と向き合い、救いへ向かう姿を描いた中編小説です。
構成はとても特徴的で、
- 前半:「フラニー」
- 後半:「ゾーイー」
という二部構成になっています。
まず驚くのが、フラニーの話があまりにも短いこと。
本当に、あっという間に終わります。でも、この短さがとても象徴的。
説明も救いも与えられないまま物語が途切れ、フラニーの精神状態そのものが文章の長さになったような印象です。
そして後半の「ゾーイー」は、とにかく長い。
会話が多く、思索が深く、延々と続く精神的な対話。
正直、初めて読むとかなりしんどいです。
- 話が長い
- 会話が回りくどい
- 何を言いたいのか分からない
そう感じる人の方が多いかもしれません。
物語というより「精神的対話を読み続けている感覚」に近いです。
でも、この小説のすごいところはここからです。
初読ではついていけなかったゾーイーの言葉が、再読すると
「フラニーを救うための必死な言葉」だったと分かるようになります。
この作品は、
フラニーの話で始まり、ゾーイーの話で終わる、フラニーの物語
と言っていいのだと思います。
フラニーは大学生。
恋人とのデート中、彼の振る舞いに強い嫌悪感を覚え、
宗教書に傾倒するうちに心身のバランスを崩していきます。
実家で寝込むフラニーに対し、兄のゾーイーが徹底的に対話します。
さらに長兄の言葉も加わり、
「誰のために生きるのか」
という問いに向き合うことになります。
ゾーイーは、小柄で華奢、並外れた美貌と才気を持つ青年。俳優で、七人兄弟の末っ子。
皮肉屋で理屈っぽいけれど、実はとても不器用で、言葉を尽くさなければ愛情を伝えられない人物です。
この物語はしばしばキリスト教的だと言われますが、
イエス・キリストそのものが前面に出てくることはありません。
宗教小説でも、布教のための物語でもありません。
サリンジャーは、
「キリスト教を語らずに、キリスト的であることを描いた」
作家なのだと思います。
つまりこれは、
- キリストについての物語ではなく
- 「キリスト的であるとはどういうことか」を描いた物語
信仰を持つ人間の心の動き、霊的エリート主義ではなく、
他者のために生きるという、ごく静かな精神の変化が描かれています。
サリンジャーは多くの宗教思想に触れ、
キリストを唯一の救済者というより「自己を超えるための象徴」と捉えていたようにも感じます。
だからこの作品は、キリスト教小説というより、
「普遍的な霊的成長の物語」なのだと思います。
私が読んだのは、野崎孝訳(新潮社)。
訳者による前書きや後書きはありません。
一方、新潮社からは村上春樹訳も出ていて、訳者解説がとても充実しているようです。
次は、村上訳で読み直してみるつもりです。
きっと、ゾーイーの長い言葉の意味が、また違って見えてくる気がしています。
J.D.サリンジャー(1968)フラニーとゾーイー(新潮社)



