ナルドの香油 ― 同じ出来事、異なるまなざし
私の通っている教会では、礼拝をZoomで配信し、録画をYouTubeの限定チャンネルにアップしています。
オンライン参加でも、聞き逃した部分を後からゆっくり振り返ることができるのは、とてもありがたい仕組みです。
今回のメッセージ箇所は、マルコの福音書14章1〜9節。
説教題は「ナルドの香油」でした。
いよいよ十字架の直前へ
これまで教会では、特別な機会を除いて、ずっとマルコの福音書を読み進めてきました。
そしてついに14章――イエスが十字架に向かう、最も緊迫した場面に入ります。
この時、十字架の死の二日前。
宗教指導者たちは、過越の祭りの間は混乱を避けるため、イエスの暗殺を控えようとしていました。
しかし結果的には、その思惑とは異なる形で、イエスは過越の祭りの時に十字架にかかることになります。
まるで、出来事の背後に神の導きがあるかのようです。
300日分の価値 ― すべてを注ぐ行為
ベタニア、シモンの家での出来事。
ある女性が、300日分の賃金にも相当するナルドの香油を、ためらうことなくイエスの頭に注ぎます。
周囲の人々は「もったいない」と批判します。
しかし、この行為は単なる浪費ではありませんでした。
イエスはこれを、自分の埋葬の準備として受け取ります。
さらに、油を頭に注ぐ行為は、旧約以来の伝統の中で
王やメシアへの油注ぎを象徴するものでもあります。
つまりこの女性の行動は、
- 王としてのイエス
- そして、これから死に向かうイエス
この二つを同時に示していたのです。
もう一つの「香油」の物語
ここで思い出されるのが、ヨハネの福音書12章の出来事。
こちらでは、マリア(ラザロの姉)がナルドの香油をイエスの足に注ぎ、自分の髪で拭う場面が描かれています。
同じ「香油を注ぐ」という行為でも、その意味合いは少し異なります。
2つの福音書の対比
とても印象的だったのは、この違いです。
- マルコの福音書:頭に注ぐ
→ 王・メシア、そして埋葬の象徴 - ヨハネの福音書:足に注ぐ
→ へりくだり・愛・献身の象徴
どちらも「イエスへの特別な献げもの」を描いていますが、
焦点が見事に異なっています。
理解していなかった弟子たち、理解していた女性
イエスはこれまで何度も、自分の死を予告していました。
しかし、12弟子たちはその意味を十分に理解できていませんでした。
一方で、この女性は――
まるでその時が近いことを知っていたかのように行動します。
言葉ではなく、行動によって示された信仰。
それは、理屈を超えた「応答」だったのかもしれません。
同じ出来事、異なる光
今回のメッセージを通して感じたのは、
同じ出来事でも、どの角度から見るかで意味が深まる
ということでした。
マルコは「王としてのイエス」を、
ヨハネは「愛に応える人の姿」を描いています。
どちらも欠けてはならない視点であり、
重ねて読むことで、出来事の奥行きが見えてきます。
オンラインで聞き返しながら、
改めてその深さに気づかされました。
ひとつの出来事に、これほど多くの意味が込められている――
それが聖書の面白さだと、あらためて感じています。

