日曜礼拝は誰でも参加できます。礼拝は通常、「招きの言葉(招詞)」から始まります。今日の礼拝で開かれたのは 詩篇100篇1〜5節:
全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ。主こそ神。
主が 私たちを造られた。
私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。
感謝しつつ 主の門に
賛美しつつ その大庭に入れ。
主に感謝し 御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深く
その恵みはとこしえまで
その真実は代々に至る。
「感謝の賛歌」と呼ばれるこの詩篇は、まさに神への感謝を歌い上げるものです。
「感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ。」
とあるように、神に心からの感謝をささげることを勧めています。区切りのよい「100」という数字の通り、暗唱に適した詩篇としても知られています。
その後、賛美歌を歌い、聖書を開きました。今日のメッセージの聖書箇所は マルコの福音書10章32〜45節。題は「仕えるために」でした。
弟子たちの思惑とイエスの教え
マルコ10章では、イエスが弟子たちとエルサレムに向かう道すがらの場面が描かれています。弟子の中でも気性が激しい「雷の子」ヤコブとヨハネが、「王座の右と左に座らせてほしい」と願い出たため、他の弟子たちは憤慨しました。
でも正直なところ、弟子たちは皆「偉くなりたい」という思いを抱えていたのです。イエスはそんな彼らに対し、「神の国のルールはこの世とは逆だ」と語ります。
この世の権力者は上に立ち、人を従わせます。けれども神の国では、支配するのではなく「仕える」者こそが偉大なのだと。
「Servantship(仕える姿勢)」
会社勤務をしていると、マネージメントの分野で「servantship」という造語が語られることがあります。「奉仕者であること」「仕える姿勢」を意味しますが、これはキリスト教の基本姿勢でもあります。
イエスは「人に仕えるために来た(not to be served, but to serve)」と語られました。その姿を信じる者は、へりくだり、愛と忍耐をもって他者に仕える人生を歩むように招かれています。
受難の告知と復活の約束
この箇所でイエスは、3度目の「受難の予告」をなさいました。十字架での死、そして3日後によみがえることを語られたのです。イエスは「多くの人の身代金として命を捧げる」ことによって、私たちに新しい命の道を開かれました。
けれども「王座の右や左」に座ることは、人の努力や願いで得られるものではありません。神のご計画によって与えられるものなのです。
今日のメッセージから
私たちが日々できることは、「仕える姿勢」を大切にすること。相手の必要に耳を傾け、へりくだり、愛と忍耐をもって奉仕すること。
その積み重ねが、神への従順につながるのだと感じました。「偉くなる」ことを目指すのではなく、「仕える」ことを通して神の国に生きる。それが今日心に響いたメッセージでした。2025年10月5日の日曜礼拝にて。

