(小学校中学年から高学年向けの)児童文学作家(=Middle Grade Author)でサイエンス・ライターのヨローナ・リッジさんが、サイエンス・イラストレーターのアレックス・ボーズマさんと仕上げた名著です。翻訳者の坪子さんが読みやすい日本語で訳してくださいました。
簡単な記事としてまとめるには無理すぎる、膨大な情報がとても分かりやすくまとめられています。
1遺伝子の世界に飛び込もう (Jumping into Genetics)
2ゲノムを書きかえる (Rewriting the Genome)
3より良い血 (Better Blood)
4突然変異体の蚊 (Mutant Mosquitoes)
5がんは過去の病気? (Cancer Cured)
6完璧なじゃがいも (Perfect Potatoes)
7健康によい肉 (Healthy Herds)
8死への勝利 (Death Defeated)
9強化された人間 (Enhanced Humans)
10未来に向き合う (Facing the Future)
この本では取り上げられていませんが、新型コロナウイルスのアウトブレイクにより、PCR検査という用語が広く知られるようになりました。PCRは(あらゆる生物が持っている)ゲノムの特定の領域を短時間で指数関数的に増やす技術で、米国人のキャリー・マリスが(ホンダのシビックで)ドライブ中に増幅原理を思い付き、1985年のScience誌でその応用に関する論文が発表されました。世界中の人がPCRという言葉を口にするようになったのは、彼の死後、半年たってからのことです。
CRISPRは(あらゆる生物が持っている)ゲノムの特定の領域を切断して編集する技術で、エマニュエル・シャルパンティエ(独マックス・プランク感染生物学研究所)とジェニファー・ダウドナ(米カリフォルニア大学バークレー校)が率いるグループが2012年のサイエンス誌でその仕組みを発表しました。彼らは細菌のゲノムに「回文形式の短い繰り返し配列」と「ウイルスのDNAのかけら=スぺーサー配列」が交互に並んだ構造がコードされているその領域の付近にCRISPR関連タンパク質がコードされており、そのタンパク質がジッパー(のようにDNAの二重鎖を開き)とハサミ(のように切断する)機能を持っていることを見出しました。翌年には米国の別のチームが、細菌がウイルスに対抗する免疫システム(CRISPR-Cas9:一度感染したウイルスの塩基配列の一部を記憶し検出し排除する機構)を、マウスやヒトの細胞でゲノム編集のツールとして使えることを発表、更には一つの細胞に対してCRISPR-Cas9で何万か所もの編集を行えることも示しました。A Powerful Way to Change DNA、これまでありえなかった形でゲノムを編集する力を人間に与えてくれるバイオテクノロジーです。
遺伝子工学の歴史を振り返ると、九州大学の石野先生が1987年にCRISPR配列を見出したことがその発端です。20世紀の終わりには、FlavrSavr(トマト:この本に書かれています)や羊のドリーが報告され、ゲノム編集はCRISPR以外の方法(日本がこの分野で先導役の一つを担っていたタンパク質そのもので塩基配列を認識させる手法)がしばらく続いた後、遺伝子導入をより安価に研究が簡単に行えるCRISPR技術が登場しました。オフターゲット(←意図しないゲノム領域でのゲノム編集)とデリバリ(←細胞の中に届けやすくする方法)の課題があるものの、実験室でのゲノム改変操作は非常に簡便なため(←ゲノム編集したい領域の配列の近傍に規定のモチーフ配列を見つけ、かつオフターゲットが起こらない塩基配列の相補鎖を含むようなガイドRNAは容易に入手可能)、世界中の至るところで研究者は日常的にCRISPR技術を使っています。そして、単一遺伝子疾患から癌に至るまで幅広い病の治療、ウイルスが細胞の感染時に入り口として使う受容体のゲノム編集による感染防御の研究、作物の改良など(スーパーポテトについてこの本に書かれています)実に広く活用されています。
この本の醍醐味は、14歳からわかる遺伝子編集の倫理にあります。第4章でマラリア原虫が蚊のお腹の中で生き続けるのに必要なタンパク質をノックアウトするためのCRISPR-Cas9配列を組み込む遺伝子ドライブの手法によって感染を撲滅できるにも関わらず、特定の種類の蚊、ひいては蚊という種全体が死に絶えるかもしれない状況を人間が作り出すことの是非を学びます。そして最後の3つの章(第8〜10章)を通して、CRISPR技術は諸刃の剣であることを学びます。原子力のように多大なリスクがあるものとして国によって扱いが大きく異なる時代が来るかもしれません。あるいは、定期的に自分のゲノムに変異が起きていないかを調べて、問題があればCRISPR技術で治療する時代が迫っているのかもしれません。
Yolanda Ridge 著、Alex Boersma イラスト、坪子 理美 訳(2023)CRISPRってなんだろう?(化学同人)
