日曜日は教会へ:ギターの音色と共に迎えた朝礼拝:「祈りの家」

黄色いガーベラは向日葵のような繊細な小さな太陽 教会
黄色のガーベラはヒマワリっぽくて可憐な太陽のようです
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「祈りの家」:今朝、久しぶりに聴いたギターの音色と共に

私が通っている教会は、日曜日の礼拝が10時半スタートです。

いつもは高齢の方をお迎えに行ってから教会へ向かうので、着くタイミングはギリギリ。ギターの弾き語りが聞こえてくる時間帯には、ちょうど間に合いません。

でも今朝は、その方がお休みされたため、少し早く到着。
久しぶりに、青年が奏でるクラシックギターの音色を聴くことができました。
教会の朝に静かに馴染む、柔らかなギターの響き。
なんとも贅沢な時間でした。

プロテスタント教会でも、礼拝直前の時間の過ごし方は教会ごとに違います。
静まるところもあれば、元気いっぱいの讃美でテンション高く始まるところもある。
(後藤先生:「始まりのない書物は聖書ではない」を参照ください)。
決まりというより「スタイル」ですよね。

今日のメッセージ『祈りの家』(マルコ11:12-26)

イエスがエルサレムに入城した直後の出来事。
「呪われたイチジクの木」と「宮きよめ」が交差する、有名なシーンです。

ベタニヤから神殿に向かう途中、イエスは一軒のイチジクの木を見ます。
その季節(4月初旬)は、本来まだ甘い実が熟す前。
でも芽のような小さな実くらいはあるはず…
しかし木には何もついていなかった。

イエスはその木に対して「永遠に芽をつけることはない」と言葉を発します。
そしてその後、弟子たちの目の前でその木は枯れてしまいました。

聖書ではイスラエルがイチジクに例えられることがあります。
葉は立派でも実のない状態=栄光を表さない姿。
裁きとしての象徴でもあります。

神殿で怒るイエス

神殿には「異邦人の庭」があり、本来は全ての民の祈りの場所でした。
ところが、その場所で動物の販売や貨幣交換が行われていた。
そこで祈るはずの異邦人たちの祈りが妨げられていたのです。

イエスはそこに激しく憤り、商人を追い出しました。
「この宮は、すべての民の祈りの家と呼ばれるべきだ。」

荘厳に見えても、金儲けに使われている神殿は、枯れたイチジクと同じ。
やがて崩れ落ちるのだ、とイエスは語ります。

そして最終的には、イエスは十字架を通して
“神と人の間の壁”そのものを取り除かれました。

私たち一人ひとりが祈りの家になっていく。

祈りの極意:「信じる者は、その通りになる」

動くはずのない山が動く。
神が成し遂げられるから、起こり得ないと思っていた事が起きる。

信仰には「根拠のない自信」さえ宿す時がある。
神の愛がそれを支えているから。

そして祈りにはもう一つ大切な視点があります。

赦すこと。
神が私たちを赦してくださったように、私たちも人を赦す者でありたい。

これが「実」なのかもしれません。

祈りを待っておられる主

教会は祈りの家。
そして私たち自身も祈りの家へと変えられていく存在。

主は今日も、素直な祈りを待っておられます。2025年11月2日の日曜礼拝にて。

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