日曜日は教会へ:全国共通テストの日に考えた「真の礼拝」|生きたままで献げるということ

2026年、新年の教会に飾られた花 教会
新年を迎えた教会の花が、ひときわ美しく感じられました。
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毎年、年が明けてしばらくすると、日本では「全国共通テスト」の日がありますね。
受験生の皆さんにとっては、これからの進路や人生を考えるうえで、とても大きな節目となる一日です。

試験というと、どうしても「結果」や「点数」に目が向きがちですが、実はそれ以上に大切なのは、ここまで努力してきた過程そのものなのかもしれません。緊張しながらも会場に向かい、自分の力を出し切ろうとした、その姿勢自体がすでに尊いものだと思います。

そもそも人間は、完全な存在ではありません。
誰もが欠けを持ち、弱さや不安を抱えながら生きています。思い通りにいかないことも多いし、失敗もします。テストでうまくいかないことも、人生では珍しいことではありません。

でも、その「欠け」があるからこそ、人は悩み、考え、努力し、挑戦し、成長していくのだと思います。完璧でないからこそ、人に頼り、助け合い、学び続けることができる。そう考えると、試験の結果がどうであれ、それはその人の価値を決めるものではありません。

今日を迎えた受験生の皆さんは、すでに大きな一歩を踏み出しています。
結果が思い通りであっても、そうでなくても、それは人生のほんの一場面にすぎません。

「人は完全ではない。だからこそ、前に進める。」

そんなことを、全国共通テストの日にあらためて感じました。

今日はもう一つ、「礼拝」というものについても思いを巡らせていました。

今日の教会の礼拝は「伝道礼拝」でした。
伝道礼拝では、メッセージは一般の方にも分かりやすい内容になることが多いです。ただし、それは「浅くなる」という意味ではなく、「伝わりやすくなる」という意味での易しさです。入口を低くして、福音の本質に触れてもらうための工夫です。

日本では、年が明けると神社や仏閣に初詣に行きますよね。
無宗教だと言いながらも、多くの人が自然にお参りをします。仏教が圧倒的に多く、神道も身近にあり、夏になればお祭りで神輿を担ぎ、結婚式はキリスト教式、お葬式は仏式……。本当に柔軟で、不思議なほど自然に宗教が生活に溶け込んでいます。

山が信仰の対象になり、山の神社で手を合わせることもありますが、それは「宗教行為」というより、文化や習慣に近い感覚でしょう。
このフランクさ、緩やかさに、海外の人が驚くという話もよく聞きます。

では、キリスト教における「礼拝」とは、そもそも何なのでしょうか。

今日のメッセージは、『真の礼拝』。
聖書の「ローマ人への手紙」12章1〜2節からのお話でした。

聖書が言うふさわしい礼拝とは、
私たちのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げること。

これはとても印象的な言葉です。
礼拝とは、日曜日に教会で歌を歌ったり祈ったりすることだけではなく、私たちの生き方そのものを神に献げることだ、というのです。

モスリムの方々は、一日に五回の礼拝を捧げます。
それは生活の中に完全に組み込まれた、信仰のリズムです。

私にとって、聖書に基づいた礼拝は明らかに「宗教行為」です。
けれど同時に、長年続けていることで習慣にもなっています。海外では、キリスト教が文化そのものになっている国も多く、「宗教行為」と「生活習慣」の境界が日本以上に曖昧なのかもしれません。

聖書によれば、私たちは本来、神と似た者として造られ、神と共に歩む存在でした。しかし裏切りによって、その関係は断ち切られてしまいました。
そして今、私たちに求められているのは、「生きたままで自分を献げる」という献身です。

「自分ファースト」から「神様ファースト」へ。
これは決して怪しい話でも、現実離れした話でもありません。

自分の欲や都合を最優先する生き方から、
道徳的な益、他人の益、自分以外の誰かの幸せを考える生き方へ。

そう考えてみると、実際にはなかなかできていないことにも気づかされます。
「自分が、自分が」となってしまう場面の方が、ずっと多いのです。

キリスト教における礼拝とは、イエス・キリストによる恵みによって可能となった、生き方そのものの転換なのだと思います。

全国共通テストという人生の節目の日に、
そして伝道礼拝という「分かりやすく語られる礼拝」の中で、

「人は完全ではない。
だからこそ、神の前に生きたままで献げられる存在なのだ」

そんなことを、静かに考えさせられた一日でした。

神に喜ばれる、
「聖なる生きたささげ物」として歩めますように。

2026年、新年の教会に飾られた花
新年を迎えた教会の花が、ひときわ美しく感じられました。
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