近隣の公園で桜が一気に咲き始めました。いつものように9時半に自宅を車で出発。道中の桜が春の到来を感じさせます。「こんなところに桜の木があったのですね。」途中でピックアップした高齢の方と季節話をしながら、いつものように教会へ。礼拝直前の前奏はいつも神聖さを感じる他の場所では味わうことのできないひとときです。気持ちが静める静まります。
メッセージのタイトルは「子犬でも」マルコの福音書7章24-30節からです。ツロとシドムの地方はイスラエルから見ると外国で、フェニキアという町にある港街です。やもめの息子をよみがえらせる話があります。やもめに養われている時に死んだ息子をエリヤが祈って信仰を告白します。異邦人にも神の祝福の道は開かれています。一方、イエスは故郷のナザレに戻った時、受け入れられずに殺されそうにまでなった事があります。精神的にも肉体的にも疲れ果てたイエスが休むためにお忍びでフェニキアに滞在しようとした所へ、イエスの元にやってきたギリシア人の女性が娘の悪霊を追い出してほしいと願います。異邦人の彼女に、子犬の例えで、まず子どもたちを満腹にしないといけないとお話しされたイエス。食卓の下の子犬でも、子どもたちのパン屑はいただくと答えた彼女。
スプーンがない時代、こぼれたパン屑をパンの塊で拭う習慣があったそうです。汚れた民あれば聖い民あり。プライドを捨てて謙遜を持って神の前にひざまずく時に真実の信仰があります。ツロの女性の例えとして知られる箇所。主からいただいている恵みに感謝です。

礼拝後、つい先日まで松原湖バイブルキャンプでキャンプワーカーとして子どもたちの春キャンの奉仕をしていた青年と話をしました。雪が見られたようで、長野県の山への春の訪れはもう少し先のようです。2025年3月30日の主日礼拝にて。