日曜日は教会へ:残暑から秋へ──盲目の男と弟子たちの“霊の目”

米国から帰国直後の日曜礼拝にて 教会
米国滞在6日目で日本への帰路についたので、通いの教会の日曜礼拝に続けて参加できました。
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季節の移ろいと聖書の一場面から

9月から10月にかけては、残暑から秋へと季節が移る時期。今年も10月に入ってからもしばらくは「昼間はまだ暑いな」と感じていましたが、この1週間ほどで関東地方は一気に秋らしさが増してきました。昼間はほんのり暖かいけれど、朝晩はぐっと冷え込む――そんな典型的な秋の気候ですね。

今日の聖書箇所:「立ちなさい」

本日のメッセージは「マルコの福音書」10章46〜52節から。イエスによって癒された盲目の男性が登場します。

イエスがエリコの町を通られた時、弟子たちや群衆がゾロゾロと後をついて歩いていました。その道端に座っていた目の見えない物乞いが、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」と叫びます。

ここで使われている「憐れむ」という言葉は、単なる同情ではなく、神の愛と慈しみに深く関わる言葉。物乞いは「祝福してください」と心から叫んでいたのです。すでに彼の「霊の目」は開かれていたのでしょう。

信じて求める信仰

彼は身体の障害に縛られることなく、イエスの癒しを信じ切って叫びました。その信仰に応えて、イエスは彼の目を開き、視力を回復されます。物乞いは、これまでの生活の象徴である上着を脱ぎ捨て、喜びに躍り上がりました。

一方で、イエスの一番近くにいた弟子たちはどうでしょうか。イエスがエルサレムへ向かう意味――十字架の苦しみを背負い、人に仕えるため――を理解できず、「霊の目」がまだ閉じたままでした。

私たちへのメッセージ

この聖書の箇所は、人生に対する神の計画を信じて委ねる大切さを教えてくれます。自分の弱さや限界にとらわれず、素直に「主よ、憐れんでください」と祈りたいものです。

秋の深まりとともに、冷たい麦茶から温かなお茶へ。心もまた、信仰の温もりで満たされていきたいですね。

9〜10月は季節が“残暑→秋”へ移る時期ですが、今年は10月に入っても日中は残暑が厳しいと感じていただのですが、関東地方では、この1週間の間に日中の気温も下がってきました。昼間は少し暖かめだけど、朝晩は冷えるという典型的な秋の気候に移行中、というイメージですよね。

を9月に入っても麦茶が用意されていたのですが、本日のメッセージの箇所は、『立ちなさい』「マルコの福音書」10章46〜52節でした。

この箇所では、イエスによって癒された盲目の男性が登場します。

イエスはエルサレムに向かう途中、エリコという町に来ました。弟子たちはイエスの教えを聞きながら、ゾロゾロと歩いていました。目の見えない物乞いが座っていて、最初に「憐れんでください」と叫びます。「憐れむ」は、通常は不憫な状況に同情するというような意味ですが、聖書では密接に神との関わり合いを持つ言葉です。可哀想ではなく、真実の愛と慈しみを表す言葉です。祝福して下さい、という叫びとも取れます。救いはダビデの家系から生まれると信じていた物乞いは、まず霊の目が開かれたのですね。

その叫びを聞いたイエスは、イエスに近づくチャンスを得ます。物乞いは治るとは考えもつかないその身体的な障害にかかわらず、イエスの癒しの能力を強く信じていました。彼はイエスに癒しを求めて叫び、イエスは視力を回復して応えました。そして、物乞いの彼は(お金を受け取るのに必要な商売道具の)上着を脱ぎ捨てて躍り上がって喜びました。

一方で弟子たちは、イエスが何のためにエルサレムに行くのか(十字架の苦しみと仕えるため)を理解できず、「霊の目」すら開かれていなかったのです。イエスが何のためにエルサレムに行くのか(十字架の苦しみと仕えるため)を理解できず、「霊の目」がまだ開かれていなかったのです。

この聖書の箇所は、私たちの人生に対する神の計画に対する信仰と信頼の重要性を強調しています。素直に祈る者になりたいですね。

おまけ

教会では、夏の間は冷たい麦茶が用意されていました。冷たいお茶でひと息つくと、自然と会話も涼しげな雰囲気に包まれていました。けれども今は、温かいコーヒーや紅茶を片手に語り合うのが心地よい季節。そんな「お茶の交わり」も良いものだな、と感じます。そのようなお茶の交わりが可能かどうか、私自身も働きかけていきたいと思います。2025年10月12日の日曜礼拝にて。

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