毎週日曜日に通っている教会で、ちょっとした出来事があり(実は牧師先生が7月に鎖骨を骨折)、この8月の日曜礼拝は週ごとに別の先生がメッセージをしてくださっています。
本日の礼拝では、遠藤芳子先生がお話しくださいました。
メッセージのタイトルは、ヘブル人への手紙11章13〜16節から――
『天の故郷に憧れて生きる』。
心に残る、静かで力強い言葉でした。
お話は、先生ご自身が最近右手首を骨折されたというエピソードから始まりました。実は遠藤先生は、キリスト教の月刊誌「いのちのことば」の記事(リレー連載:① ② ③)にも記されているように、進行性の筋肉の病気を患われ、車椅子の生活を経て再び歩けるようになったご経験をお持ちの方だそうです。私はその経緯を知らずに、フラットな気持ちでメッセージを聞いていましたが、むしろその分、語られる一つひとつの言葉を新鮮に受け取ることができたように思います。
「天の故郷に憧れて」とは、決して“早く天国に行きたい”という意味ではありません。むしろ天に視点を定めて今を生きること。私たちの人生は、行き先が分からなければ空虚なものになりがちです。まるでゴールの見えないマラソンを走らされているような感覚に陥ることもあるでしょう。
けれど、なぜ生きているのか、どこに向かっているのかという根源的な不安から解放されること――それがキリスト教の示す大きな希望なのだと改めて感じました。
たとえ聖書を信じなくても、自分の存在の源を探ろうとする思い、故郷への渇望のような感覚は、人の心の奥底にあるのではないでしょうか。「信じられないものは信じられない」と思いながらも、年齢を重ね、衰えを覚えるようになったときに、神にすがりたいと願うようになる人もいるのかもしれません。
遠藤先生は、ご両親の看病のために毎月実家に帰り、がんを克服したお母様と一週間を共に過ごすことを続けていたそうです。クリスチャンとなった親御さんの死は、「主の御もとで安らぐ」と表現されるのだと聞き、信仰を持つ者にとって死が終わりではなく、新たな“故郷”への帰り道なのだと感じました。
そして改めて思うのです。私たちは、あくせくとその日のノルマをこなしながらも、「生きている意味」を問われています。人生は寄留の旅であり、帰るべき故郷を意識して生きること。帰るところがあるからこそ旅なのです。そこに、どう生きるべきかの“軸”が与えられているのだと思います。
クリスチャンとして、信仰の人として生きる――母と妻と子どもたちと教会で共に賛美し、牧師からメッセージを聞く。これこそが私の夢なのかもしれません。
天にあるものは、地上のものより遥かに優れています。しかし同時に、この地上で前向きに生きることもまた大切です。その備えの幸せを共に味わえるのが、身近にいる人々であり、そして教会⛪️なのだと感じています。
一方で、最近は朝ドラ「あんぱん」にもどっぷりはまっています。主題歌はRadwimpsがこのドラマのために書き下ろした「賜物」。ドラマの中では曲の最後までは流れませんが、実はラストの歌詞がとても深いのです。
『時が来ればお返しする命 この借り物を我が物顔で僕ら 愛でてみたり 諦めてみだりに 思い出無造作に 詰め込んだり 逃げ込んだり せっかくだから唯一で無二の詰め合わせとして返すとしよう あわよくばもう「いらない、あげる」なんて 呆れて笑われるくらいの命を生きよう、君と生きよう』。
最初は何気なく口ずさんでいましたが、この歌詞にはキリスト教の世界観と響き合う部分があると気づきました。命は自分の所有物ではなく、神からの賜物。時が来ればお返しするものです。行いを積み重ね、その人生を“返す”のです。
ただ、聖書が中心に据えるのは「返すこと」よりも「恵みによって救われること」。だからこそ、“天の故郷”を思いつつも、今を感謝して生きることが大切なのだと改めて感じました。
天の故郷に憧れて生きる――。
今日の礼拝とドラマの主題歌が不思議に重なり合い、命について考えさせられる、とても貴重な時となりました。